第二幕 赤い星のダンディリオン

第二幕 赤い星のダンディリオン

 無限世界イスターナルの、とある滅亡した世界の赤い星。

 中天ちゅうてんに向かうにつれ茜色あかねいろからオレンジ、そして白に至る眩しい空を眺めて、今は悔悟かいごの天使と呼ばれるようになった天使プラエトたちの長の一柱『修復者』セシエルは、遠いものでも見るように眩し気に目を細めた。

 オレンジがかった燃えるような空の中天には大きな名もない月と、白い光ので繋がった大小二つの恒星が白く輝いている。

 その二つの太陽を映し出す海と、砂浜のない水没した山のような歪な陸地の連なる様は、一見とても美しかったが、かつてこの地に存在した人間が生身でこの地に立てば、猛毒の大気に肺を焼かれ、強過ぎる日差しでその皮膚は焼けただれ、苦悶のうちに数時間で命を落とす恐ろしい環境だった。

 傾いた日の光はまだ強く、熱線のように強い日差しが禿げた山肌を焦がし、有毒の煙がほぼ死んだ風にゆっくりゆっくりと流されてゆく。ここはとうの昔に人々も神々もいなくなって久しい。

 もう何度、この景色を見た事だろうか? セシエルは眼下に目を移した。

 猛毒の赤い海と空の中で、幾つかの山並みを貫通する堰堤えんていに囲まれた、白銀の美しい都市が佇んでおり、微かに荘厳な天使たちの歌が聞こえてきていた。

 白銀に輝く幾つかの尖塔せんとうは鉱物の針のような結晶を思わせる。さらに、滑らかで山々を超える高さの白銀の塔。他には半円形の先進的な建物や大小さまざまな六角柱や八角柱の建物が並び、この美しい都市を取り囲む堰堤えんていの中だけは、きわめて清浄な水をたたえている。

──赤い星の都タラス。

 かつて天使プラエトたちがさばきの光で焼き尽くした、怠惰な人間と神々たちの住んでいた星。神々に与えられた大地をあまりに蔑ろにしたとして人間たちを滅ぼすに至ったが、今や悔悟かいごの天使たちはこのような見捨てられた世界を無限世界イスターナルのあちこちで修復していた。

 このタラスは特に汚染と天使たちの兵器による破壊が著しく、天使たちがその権能をどれほど使っても、ここ数百年、浄化と復活の兆しはほぼ見えていなかった。

 それでも、とセシエルは左足首を見やる。悔悟の天使たちの左足首には、例外なく黒い鎖が巻き付いている。懺悔の天使たちはこれを『足枷あしかせ』と呼んでいたが、それは出来れば外したいようなものではなく、自分たちの身の安全を保障する、安心をもたらす大切なものだった。

 セシエルは過去に思いを巡らせる。

 かつて『アスギミリアの戦い』と呼ばれた船の民をめぐる戦いで、総勢八十億とも伝わる天使たちの軍勢は突如現れたダークスレイヤーと破壊の巨神レイジス・スルトに、わずかな時間にその三分の一が消滅させられ、その敗北と戦意の喪失をとがめられた天使たちは結果として界央セトラの地から追放されてしまった。

 無数の世界を断罪し、焼き滅ぼしてきた天使たちはこの時から追われる者となった。併せて、永遠性を持つとは限らない存在にされたとして、性別まで与えられてしまった。

 それだけならまだよかった。

 界央セトラの地は新たに『生命の樹』の力で活動する死の使徒たちを生み出してダークスレイヤーに対する戦力としたが、破壊と生命の化身たる死の使徒たちは、あろうことか追放された天使プラエトたちを捕食や同化、歪んだ生殖の対象とするように創造されており、行く当てのない逃避行の中、多くの天使たちが惨たらしい末路を辿り、天使たちはかつての自分たちの行いがいかに無慈悲で傲慢ごうまんなものだったかと悟るに至った。

 この逃避行の果てしない道のりを、天使たちは今でも『なみだ雲路くもじ』と呼んでいる。

 セシエルはタラスの彼方、堰堤えんていの外の猛毒の海に映る太陽の美しい光を見て、ため息をつく。

──闇の真王様、私があなたをそうお呼びするとしばしばなされる、その深い呼吸は何ですか?

 セシエルは遠い昔、ダークスレイヤーと呼ばれた男がしばしば呆れた時や脱力した時などに見せる吐息について聞いた時のことを思い出していた。

──これは溜め息というのだ。

 かつて自分たちを震え上がらせた男は、ある密約から自分たちの盟主となった。天使長たちはあの恐ろしい男からどれほどの惨い目に遭わされるのかと思っていたが、意外なことに男は追われる天使たちの身柄を保証し、それは界央の地との何らかの交渉の材料とされたらしい。

 当時、自分たちの身を犠牲にしてでもより下位の天使たちの身の安全の保障を取り付けんと、男の性を持った天使長たちは苦役や拷問を受けることを、女の天使長たちもまた労役やねやでの務めさえ申し出たが、黒い戦士の言葉は意外かつ単純なものだった。

──罪を悔い、世界と人を理解し、失われた世界の復旧に努めればいい。

 天使たちは自ら翼を切り落として権能けんのうの一部を封じ、永劫回帰獄ネザーメアにその翼を封印した。そして、定命の者たちの労苦などを理解するべく、悔悟かいごとして自分たちの破壊した世界の復旧に努める事となった。これが悔悟かいご天使プラエトたちの始まりとされている。

 しかしやがて、その悔悟の涙は無限世界イスターナルを知れば知るほどに尽きないものとなった。

(私たちの罪はどれほど大きかったのか……)

 焼き尽くしてきた無数の世界、無数の神々、無数の人々。その全てが可能性であり、界央の地にそぐわぬからと言って滅ぼしてよいものでは無かった。

 なぜ、あんな事をしてしまったのか。

「私は秩序を、界央セトラの地を、聖魔王様を、隠れし御方たちを、心から愛していた……つもりだった」

 セシエルはいつしか独り言ちていた。

──お前たちの言う『愛』は、おそらくおれの知るそれではない。

 いつだったか、ダークスレイヤーはセシエルの疑問に対してそのように答えていた。

──そもそも、おれには答えようがない。人や神の心に愛があるとは、おれにはとても言えない。まあ少なくとも、おれの心には無いな。

 黒衣の男はそう言って笑っていたが、ではなぜこうも慈悲深いのか?

 天使たちにとって、世界は純粋な数式で出来ていたもののはずなのに、今となってはセシエルには分からない事ばかりが増えている。

 無限世界イスターナルの中心であり、完璧が存在すると思っていた界央セトラの地。しかし、『アスギミリアの戦い』以降、天使たちは世界がいかに広く複雑であるかに打ちのめされ、今となってはそれらを理解し、また復活していかんとすることに無上の喜びを感じるようになっていた。

 純粋なる数式では表現や理解の仕切れない『揺らぎ』は多く、また、祝福なのか呪いなのか分からない概念が世界には満ちている。

 セシエルは今の自分たちの主がそうするように、そっと溜め息をついてみた。何かが変わるわけではないはずなのに、心の中の形にならないもやもやとした何かが吐き出されるような気がしてくる。

「不思議なものですね。私たちは主を真似しているだけなのでしょうか?」

 セシエルは二対四枚の翼を広げた。翼は中ほどから切り取られていたが、そこから先は黄金の光を放つ幻影のように透けた翼が現れる。

贖罪しょくざいの務めに戻りましょう」

 『修復者しゅうふくしゃ天使長プラエトラセシエルは眼下の都、タラスへと飛び去った。

──『アスギミリアの戦い』において滅ぼされた天使プラエトたちは二十数億とされている。この戦いで戦意を喪失した天使たちや、追放されて無限世界イスターナルの各所に散った天使たちのうち、ダークスレイヤーの元に降り、彼と界央セトラの地との約定やくじょうによって身柄を保証された者たちは『悔悟かいご天使プラエト』と呼ばれるようになった。

──大賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。

 赤い星の都タラス。

 この世界ではごくごくわずかな清浄な水をたたえた堰堤えんてい内の都市。その広い貯水池の白銀の桟橋さんばしの上を、セシエルは各所を確認しながら進んでいた。

 やがて、貯水池のほぼ中心にある大きな円環状の施設に行きついたセシエルは、何かの重い回転音と火花の散るような音を聞き、その装置が正常に稼働している事を確信しつつも、円環状の施設のふちからその中を覗く。施設は深い円筒形の構造をしていたためだ。

 下方には青白く光り輝く雲のような塊があり、それが円筒状の施設の銀色の壁に絶え間なく放電していた。莫大な力で水を一度分解し、下層には汚染された水に溶け込んだ様々な物質を個体から液体、気体まで、幾層にも分離して積層する仕組みになっている。

 のち、それらの物質は天使たちが注意深く分離して取り出し、あるものは安定した物質へと変化させ、多くは地下深くに新たな鉱物として埋設される流れだった。

「皆の偉大なる務めを心から称えます」

 セシエルは施設に声をかけて微笑み、その場を離れる。この都の装置や建物のほとんどは、下位の天使たちがその姿を変えた部材から構成されており、この施設もまた、多くの天使たちが姿を変えて結合したもので、返事や反応こそ返さないものの、その意識は保たれていた。

 天使たちはこのような務めを交代制で行い、この星の浄化に努めている。

──セシエル様、中央塔にお立ち寄りください。まもなくタラスは防護の場を張り、星全域に風を巡らせる時間となります。

 念話ねんわが届き、セシエルは浄化施設を後にする。見上げた空には猛毒の雲の間に、しばしば滑らかな銀色の紡錘形ぼうすいけいの物体が浮かんでいるが、鈍い光を跳ね返すそれらもまた、空気中の様々な物質を吸着して捕らえては浄化する、天使の変質した半生命体たちだった。

(皆、変わらずに務めを果たし続けている……)

 貯水池のほとりに輝く、ひときわ高く優美な中央塔『悔悟かいご浄化じょうかの塔』。天使長プラエトラたちの住まいであり、また純粋な数式を算出してこの赤い星を浄化する最大の装置でもあった。

 セシエルが向かう今も、数柱の男性の天使長たちが空へと飛び、荘厳そうごんなラッパの音と共に星に祝福を与える歌を唄い始める。タラスは薄水色に輝く防護の力場に包まれ、有毒の重い雲は次第に嵐のように流れ始めた。

 今や自然の力を失ったこの赤い星に、気流の循環や浄化を促すための祝福と風の励起だった。

(この工程も何度目だろうか?)

 なぜ、破壊する事は簡単でありながら、創造する事と浄化する事はこんなにも難しいのか。断罪とは、どこまで許されざる傲慢だったのか?

 セシエルは深くため息をつき、自分たちの主の癖がうつっていたことを嬉しく思って微笑んだ。

 貯水池の上にめぐらされた桟橋は、神秘的な美しい曲線を描きながらも各施設に最短で至れるように計算しつくされており、同時に、どこから都を見ても美しく見えるような配置でもあった。セシエルはこの都でもひときわ目立つ、長い馬刀貝のような優美な中央塔にたどり着く。

──おのれの姿を省み、常に規範であれ。

 文字とも数字ともつかない天使の真数言語エゼクスでそう刻まれた正門は、扉ではなく真なる鏡になっており左右逆にはならない。その鏡でセシエルはおのれの姿を見つめた。

 一見は、背の高い黒髪の女のようだが、その眼に瞳孔どうこうは無く、瞳は夜空に黄金の星をまぶしたような輝きに満ちている。黒い衣服は『船の民』の意見を参考に、ウロンダリアの砂漠の国、イシリアのドレスを模したもので、すらりとしていて深い切れ込みがある。天使にしては女の脚の美しさをやや強調したものだ。

 セシエルは髪をそっと手ではじいた。光の当たらない部分の黒髪は星のような銀の光の粒が舞っている。人外の高貴な美しさに、人間でも好む様な女の美しさも取り入れていたが、そんな天使たちの今の主ダークスレイヤーは、女性の天使たちを尊重はしても、何も求めはしなかった。

(美しいはずなのですがね……)

 また溜め息をつこうとしていた事に気づいて、セシエルはふと笑う。女性としても美しい姿になった天使長たちはしかし、身に着ける物を以前のように宝石や貴金属などにはせず、貧金ひんきんこと真鍮しんちゅうにし、宝石もガラスや樹脂じゅしのものだった。セシエルの黒い衣服も、船の民が『プラスティカ』と呼ぶ化石から精製されたもので、多くの世界を汚染した悪名高いものだった。

 女性の天使たちは自罰的にこのような素材を用いている。

 セシエルは頭上に光を抑えた光輪こうりんを浮かべて少し自虐気味じぎゃくぎみに笑うと、向き合っていた鏡は透けて、『悔悟と浄化の塔』の玄関ホールに進んだ。翼を持たない、黒服にフードを目深にかぶった者たちが、両の袖を合わせて深々と礼をする。

「セシエル様、此度こたびの『永遠の地』への来訪、記念すべき出来事でしたな」

「あなたたち『船の民』がそのように言ってくれるなんて。私たちはあなた方にとって憎むべき敵のはず」

「あの方があなた方をお赦しになっている。ならば我々もまた、あなた方に敵意は抱かない。それよりも……」

 ホールに、重く悲しい空気が漂っている事にセシエルは気づいた。直接心に響く何者かの嘆きが漂っている。

「ああ、これは……あの子がまた……」

「はい。メルエル様の事、そろそろどうにかしなくては、堕天してしまいかねませぬ」

「……話してみます」

 セシエルの顔からは笑顔が消えた。翼を広げて床や壁を透過して飛び、『悔悟と浄化の塔』の中の暗い一室にたどり着く。

 部屋の中は暗黒だったが、それでもこの塔に漂っている祝福、魂に直接届く薫香くんこうは変わらない。ただ、闇の中に土と植物の匂いと、どこか生々しい人間じみた匂いが漂っている。

「光を」

 セシエルの声で、部屋はさっと白い光に満ちる。

 白い寝台の上で、黒い薄絹うすぎぬまとった黒髪の小柄な天使が、枕にうずめていた顔を上げた。頭上の単純な光輪こうりんしものように冷たく光り、その紫の瞳は涙に濡れている。

──かつて『アスギミリアの戦い』を止めた哀しみの天使、メルエル。

「セシエル様……」

「あなた、その姿は!」

 とがめるようなセシエルの声に負けない強さをもって、メルエルが涙に濡れた目で答えた。

「遠い昔、あの方が愛していた人の姿に近づけました。そして髪も黒く」

「……何をするつもりなのですか?」

「わかりません。どうしたらあの方の心を抱きしめられるのでしょうか? あの方の心が深い悲しみと怒りに壊れそうなのに、私は何もできない。こんな自分に耐えられないのです」

 メルエルは涙を隠そうともせずにしなやかに座り直した。首にはえりのような飾りが巻かれており、これを外せば今でも、人なら首の骨に達しそうな傷口がぱっくりと開いているはずだ。人間ならとうに死んでいるが、天使であるためそうはならない。

 セシエルはこの可愛らしい天使が苦手だった。かつて『アスギミリアの戦い』で、戦意を喪失した天使たちはダークスレイヤーの魔剣と破壊神の黒い剣閃になすすべもなく斬り殺されていたが、この時に両手を広げて丸腰で停戦を叫んだのがこのメルエルだった。

 誰もがメルエルも斬り殺されると見ていたが、意外なことにダークスレイヤーの恐ろしい魔剣ネザーメアはメルエルの首の骨を断つ寸前で止まり、『アスギミリアの戦い』は終息へと至る事となった。

 メルエルには得体の知れない強い意思があり、位の低い天使でありながら天使長たちは一目置いており、監視も兼ねてこの『悔悟と浄化の塔』を住処とするようにされていた。

 セシエルは咎める事をやめ、それこそ深いため息をついた。

「闇の真王様にあなたの事を話してお話ができるようにします。だからもう哀しみに囚われるのはやめて。堕天だてんしてしまいかねません」

「本当ですか!」

 メルエルの顔がぱっと明るくなった。

「何とかします。このままにはできませんし」

「ありがとうございます! はい、それはもう。落ち込むのもやめに致します!」

 メルエルの翼が嬉しさを隠しきれないのか、ゆっくりと羽搏はばたくような動きを見せている。その露骨な喜びようは位の高いセシエルにはあり得ない事だったが、以前ならはしたなく見えていたそれが今は好ましいものに見えており、セシエルはそんな自分に驚いていた。

(聞かなくては……)

 位や立場ゆえに非常に長い間躊躇ためらっていた事を、今は自然に行える気がして、セシエルは疑問に思っていた事を尋ねることにした。

「メルエル、教えてください。私たちの真数言語エゼクスでの計算と論理でも、今の無限世界イスターナルは全く見通せません。世界が変質したのか、私たちが変質したのか……」

 メルエルの眼から、涙の曇りが消えてしまった。

「私たちが愚かだっただけです」

「愚か? 私たちが?」

 本来なら聞き捨てならず、断罪の対象にさえなりかねない言葉だったが、セシエルの心のどこかで腑に落ちている部分があった。

「でもそれは今や、とても幸せな事なのです」

「幸せ?」

「かつての私たち天使プラエト界央セトラの地の御使みつかい。その偉大なる意思に従って無限世界イスターナルを正しく運行させるのが務めでした。でもそれは、私たちの盲目に過ぎなかった……ですよね?」

「……そうなりますね」

「盲目だから許されざる罪を重ね、さらに、罪を重ねている事に気づかなかった愚かさは断罪されて然るべきものでした。しかし、闇の真王様はそれを、赤子のようなものと見定めて可能性を下さったのです。先の見えない多くを永遠の時と共に生きて、真の理解に努める可能性を下さったのです。分からないとはすばらしい事です」

 恍惚気味こうこつぎみにとうとうと自らの非を認めるメルエルに、セシエルは得体のしれない見通せなさと一抹の不気味さを感じた。

「私を不気味に思っておられますよね?」

 さらに見通したように指摘し、笑う。

「そんな事は……いえ、少し感じてはいます」

「あの日、恐ろしい力を揮う闇の真王様をよく見ていて、私には突如いろいろなものが見え、感じられるようになったのです。気づいたらあの方を抱き止めようと進み出てしまっていたのです。自分でもなぜあんな事をしたのか、と思いますが、結果として戦いは終わり、今に至ります」

「それがあなたのあの行動の動機だったと……」

 セシエルは絶句した。明らかに、メルエルは自分たちには見えない、感じられない何かを感知する力がある。それが『アスギミリアの戦い』を止め、自分たちを全滅から救い、現在に至らせている。

「メルエル、あなたには私たちの知らない何かがありますね。あなたが闇の真王様に会う事で、また何かが変わり、何かが分かるかもしれない。全てはこの星の運命のように先が見えないのですから」

「……違います」

「えっ?」

「この星も、私たちの未来も、盲目の時期こそが最悪で、今は可能性に満ちています」

「……ここまで荒れたこの星さえも?」

 メルエルは黙って立ち上がり、半透明の壁際にある透明な球体を持ってきた。球体の中には素焼きの鉢が浮かび、可憐な黄色い花が植えられている。

「それは?」

「ここからしばらく南西に飛ぶと、遠い昔は雪で覆われていた高い山脈があります。そこの谷の一つで見つけました。私が見たものをお見せしますね」

「この星の植物ですか⁉ にわかには信じられませんが……」

 メルエルは掌を広げた。部屋はいずこかの谷を見下ろす景色に変わる。切り立った丘に緑の広がる部分があり、全てセシエルの鉢の植物と同じものが丘を埋め尽くしている。

 黄色い花々と、丸く可愛らしい綿毛。赤く焼けただれた大地の一画に、可憐な植物が力強く生えている。

「ダンディリオン、という植物によく似ているのだそうです。船の民の方々がそう仰っていました。ここしばらく何か予感がして探索していたら、偶然見つけたのです」

 一陣の強い風が吹き、ダンディリオンは赤い景色の中に無数の白い綿毛を飛ばす。セシエルにはそれが自分たちのようにも、無数の希望のようにも見えた。

「こんな事が……!」

 強い何かが胸にこみ上げ、セシエルは涙が溢れてきた。

「あの方は私たちを殺すのをやめ、界央の地が追放した私たちを受け入れたほかに、このような無上の喜びを得る資格さえ与えてくれたのです。しかし、あの方は神々の呪いを背負ったままいつまでも休まる事なく戦い続けています。そんな方を抱きしめたく思う私はおかしいのでしょうか?」

 セシエルはここで初めて、メルエルを少し理解出来た気がした。

「あなたにはきっと、私たちが持ち得ないような優しさがあるのですね。私は自分がダンディリオンの綿毛のようなものだと感じましたが、でも、あなたはそんなダンディリオンを育む荒れた大地を慈しむ者なのかもしれません」

 自分たちにも何かが起きている。しかし、それが何かはセシエルにももう分からない。

 荘厳な祝福の歌を遠くに聞きながら、いずこかの谷の景色の中でダンディリオンの綿毛が無数に舞う。そんな景色の中、似ているが異なる思いを持つ二柱の天使は初めて意見を通わせていた。

 そしてこれが、悔悟かいご天使プラエトたちの歴史の転換点でもあった。

──悔悟かいご天使プラエトたちのうち、ダークスレイヤーの事を『やみ真王しんおう』と呼ぶ者たちがいる。この理由については、彼らが追放時に持ちだした禁書『旧世界記写本ノクトラきしゃほん』の内容にちなんでいるとされるが、天使たちはこれについては口をつぐんでいる。

──賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。

first draft:2022.03.14

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