特典編・ガリエルは永劫回帰獄に至りて
ハーダルの地で軍勢ともどもダークスレイヤーに敗れたマスティマ・ガリエルは、暗黒の中を落ち続けている自分に気付いた。
(暗い……。何という暗さよ……)
ただひたすら落ちている感覚があるだけで、どれほど目を凝らしても自分の手足さえ見えない。
──永劫回帰獄の戦士となればいい。
ダークスレイヤーの最後の言葉が思い出される。
(おれは敗れたのだな)
ガリエルはおそらく自分たちが磔にしていた女神ヴァルミスに首を刎ねられたことも思い出した。あのハーダルという世界の神がけりをつけた形になっている事に気付き、ガリエルは見事な敗れ様に苦笑する。
(最後に敗れたのはいつであったか……)
遠い遠い昔のまだ人であった頃をガリエルは思い出した。最も大きい大陸の六割を版図としたが、残り四割と自分の国土とを分かつ険峻な山脈を超える戦いにおいて、ガリエル率いる軍勢は連合諸国の合従軍の知略と猛反撃にさらされ、将軍でもあった息子たちをも数多く失った。
連戦連勝で浮かれていたガリエルの国は哀しみのどん底へと落とされ、満身創痍で帰還したガリエルの報告を聞き、息子たちを失った事を知った数多い王妃たちもこの時は女の同盟を組み、その後は顔も見せようとしなかった。
(ふふ、いまさらおれが傷心か。あの時の事を思い出すとはな……)
少なくない傷の手当てを受けたガリエルは、典医が止めるのも聞かずに弱い酒をいつまでも呑み続けた事を思い出して苦笑した。やがて、結局は酔えぬままに冷たい床に入った事も。いつものような戦いの後の王妃たちとの喜ばしい時間もなく、酔いきる事も出来ず、全身を苛むじくじくとした痛みは身体のものなのか心のものなのか分からなかった。自分の血を分けた多くの有能な若者を死なせてしまい、全てが虚しく、おのれの覇業にさえ意味がないのではないかという思いがよぎった。
しかし、暗い部屋に誰かが忍び足で入り、その何者かはガリエルの褥に入って強く抱きしめてきた。いつもなら体つきで誰か分かるのに、怪我と包帯の多さで見当がつかなかった。
(あれは誰であったか……)
ガリエルの追憶をしかし、何者かの割れ鐘のような大声が打ち消した。
「ここで昔の女の事を思い出すのが貴様の弱さよ。またあの男に敗れよった者が来たか」
「何だ?」
「女の肌など思い出さず、次はいかに戦い、いかに殺すかだけを考えい!」
ガリエルは地面に激突し、顔を上げて赤い視界が開けた。周囲を満たす騒音と熱気、地響きに驚く。
そこは例えるなら巨人の鍛冶工房だった。前掛けと保護具を付けた多くの、肌の色や外見も大きく異なる巨人たちが忙しく働く、赤熱した鉄塊の行き交う巨大な工房がそこにあり、目の前には小山のような大きさの金床と、それを用いているであろう山のように大きな巨人の鍛冶師がいた。
その鍛冶師は禿げあがった頭に波打つざんばらの白い髪、白く濁った右目と闇そのものの左目を持ち、右腕はその頭よりも大きく筋肉が盛り上がっている。
「貴様は鍛冶師か?」
巨人の鍛冶師は無言で槌を振り上げるとガリエルを何のためらいもなく叩き潰し、ガリエルの意識は再び闇に沈んだ。
それからどれほどの時が経ったのか、ガリエルは同じ場所に倒れ伏していた自分に気付いてゆっくりと起き上がった。頭上から割れ鐘のような声が響く。
「次は口のきき方に気を付けい。貴様ごとき何度でも鉄屑の如く叩き伏せてやるがな!」
巨人とはいえ鍛冶師があっさりと自分を叩き殺した事に、ガリエルはここが永劫回帰獄である可能性に思い至って丁寧に一礼した。
「失礼した鍛冶師殿。おれは界央の地のマスティマの旅団を率いていた将の一人ガリエル。人であった頃はウルグバルの初代皇帝ガリアスと呼ばれていた」
「ここまでは聞こえてこぬ名だ。知らぬ」
巨人の鍛冶師は鉄を打つ手を止めず、やがて舌打ちをしては打っていた鉄をやっとこで近くの炉に投げ込み、ガリエルに向き直った。
「炉の火の機嫌が悪い。貴様の話を聞けという事か。わしは鍛冶神ギリム。かつて界央の地では『技巧』と呼ばれていた事もあった。わしは鍛冶の腕を極めんとして、我が技巧の理解に足らぬ者たちへの品物の提供をやめたが、やがてわしのいる意味なしとして追放され、この地に降り来た。いつか永劫の回帰を抜けられるような品を打つまでな!」
「馬鹿な、界央の地の失われし神『技巧』だと? 貴公が?」
ガリエルは自分の伝え聞いていた話と大きく容姿も経緯も違うこの鍛冶神に驚いた。しかし、鍛冶神ギリムはそれには答えず、また別の赤熱した鉄塊をやっとこで掴み上げて眺める。
「この地には一切の運命が働かぬ。一切の運命がだ。おのれの見識と力に拠りて立ち、戦い、何かを得んとするならばおのれで知ろうとすればよい」
「それはいかなる意味だ?」
「そのままよ。それより貴様、武器が必要だろう?」
鍛冶神ギリムは眺めていた赤熱する鉄塊をガリエルの前に放り投げた。
「これは?」
「お前はこの地にマスティマの鉄を多くもたらした。だから武器くらいは持たせてやろう。その鉄塊に素手で触れて欲しい武器を望め。手にして気が済んだら立ち去るがいい。黒炎の嵐はお前をいずこかへと連れ去るだろう。あとは好きにしろ」
「これに……?」
「もう貴様に死は無い。闘志の限りに戦い続けるしかないのだ。さもなくば灰となって舞い散るが良い」
ガリエルはおのれの掌を眺めた。天下や財宝に美女の肌と時に女神の肌……多くのものを掴み触れた手。しかし、本当に何かを掴んでいたのかと思い至った。それがダークスレイヤーとの戦いでの敗北をもたらしたのではないか? という疑念も苦々しく湧き上がってくる。
「おれはまだ戦う! ……まだだ! 断じてここで終わらぬ!」
ガリエルは両手に『罪の火』を燃やして灼熱の鉄塊に突っ込んだ。罪の火はこの鉄塊の熱をほとんど緩和せず、肉が溶けて滴り骨が焦げる。しかし構わずに鉄塊に両手を沈め、出来うる限りの何かを掴んで引き上げた。ひび割れて赤熱した大剣と大斧が現れる。
「持って行け。そして戦え! 灰になりたくなくばな」
「望むところよ!」
ガリエルは斧を腰に帯び、大剣を背にかけて一礼をすると立ち去る。しかし数歩も進まないうちに嵐のように闇が舞い、何も見えなくなって全てが暗転した。
(今度は嵐だと……!)
激しい風と炎に焼かれつつ蹂躙され、自分がどこにいるのかさえ分からなくなった。炎を纏う竜巻の中にいるかのように、黒炎がガリエルを焼いて苦しめる。苦痛に叫んでもその声はかき消された。
(これはおれの因果か? おれは何を成した? すべてに価値はあったのか?)
永い間自信に満ちていたガリエルは、らしくない問いが沸き上がる自分に気付いて笑った。これはおそらく古く苦い敗北の味。しかしそれらを一瞬にとどめて糧にし戦い続ける覚悟は既にできていた。
やがてしばらく黒炎の嵐に翻弄されたのち、落下を感じてガリエルは気を引き締めた。突如として視界が明るくなり、そう高くない位置から地面に両手と膝をついて着地する。
「うっ!」
ガリエルは頭蓋を通り越して異物が頭に押し込まれるような違和感に苦しみ、空の胃から胃液を絞り出すように何度か吐いた。無数の何者かの記憶が流れ込んできていると気付いた。
それは無数の王や皇帝に至った者たちの記憶で、人及び人に近い種族から、全くそうでない者たちもいた。しかしその心は理解できるがゆえに吐き気を誘った。
(なんだ? これは……)
突如、何者かの強大な気配を明確に感じて、気の引き締まったガリエルの手は無意識に砂を握りしめた。圧倒的で少なくない数の者が自分を見下ろしているのを感じる。
──顔を上げて、見るが良い。
流れ込んできた無数の記憶のせいで、今となっては聞き覚えのある多くの声が同調して呼びかける。ガリエルは慎重に顔を上げた。
「……何だ? ……ここは!」
灰の舞う視界の中、崖とも回廊とも、あるいは塔ともつかない多段の構造をなすものが彼方まで続き、上も見れば暗い空の彼方まで続いて限りがない。そこには玉座ごとミイラとなった王のような者たちの姿が延々と並んでいた。人であるもの、人に近いもの、全く人ではないもの、様々な姿があり、流れ込んできた記憶の主たちだとガリエルは目星を付ける。
王のミイラのような者たちの王冠の上には、しばしば火の粉が無数に集まっては渦巻いて竜巻のごとく燃え上がり、たまには半透明に透けた白い骨が茸のように積み上がって見える事もあった。
ガリエルの頭の中に無数の声が響く。
──多くの者たちは……。
──王の玉座の下は骨の山だと言うが……。
──実際にはそれは王冠の上に積み重なり、我らを苦しめて操る。
ばらばらに個性を感じさせていた声は一つにまとまり、複数存在の彼方にどこまでも偉大な王を感じさせるものとなった。
──此処こそは永劫回帰獄の『焼かれし諸王の地』よ。
「『焼かれし諸王の地』だと……?」
ガリエルは自分もまた王や皇帝であった過去に思い至り、この地のなかば化石化した王たちと同じ運命を自分も辿るのかと戦慄した。
──この運命を恐れておるか。
嘲るような無数の笑いがガリエルの脳内に流れ込む。
「恐れてなど……」
──貴様の覇業も版図も、我らの中では中の下程度よ。
──そして貴様は、つまるところ戦士であった。
王と戦士の違い。それが自分とこの者たちとの違いだという指摘に対して、ガリエルはそもそも戦士が何か、王が何かを迂闊に言えなくなっていた。生前には多くの目下の者たちに悠然と説いていたそれらの言葉が出てこなくなっていた。
「わからぬ。今や何もかもがわからぬ」
──灰と化さずに戦い続け、そなたが何かを知れば再びまみえる事もあろうぞ。
──ここに死は無い。存分に戦うが良い。
──さらばだ!
ガリエルの視界はまた極端に暗くなり大量の灰が舞い始め、『焼かれし諸王の地』は消え去ってしまった。灰と火の粉の舞い飛ぶ暗い地平が彼方まで続いている。しかし、彼方から地響きと戦士の咆哮が全てを響もし始めた。
やがて地平線の彼方に重厚な黒い甲冑の戦士たちが雲霞のように現れ始め、その赤く燃える目は大地を赤く染め始める。
「新たなる屈強な戦士が送られた!」
「存分に戦おうぞ!」
「灰と化すな、我らと戦え!」
ガリエルでさえこの数と戦意の高さと、この距離からでもわかる永劫回帰獄の戦士たちの技量に戦慄した。
「そうだ、全ては下らぬ。だが……」
ガリエルは敗北と共に蘇った遠い記憶の中で、王妃たちの同盟を破ってまで自分をいたわりに来た女の名前をここで思い出した。
──なぜそなたは女たちの繋がりを破ってまでここに来る? あれらは厄介であろうに。
王であったガリエルの問いに、女は躊躇いなく答えた。
──このような時に近くに居なくて何が妃でしょうか?
──強気な事を言うものよ。
「トーリアよ、おれにとっての女とはお前だけだったのかもしれんな。おれは何という愚か者か。……だが!」
ガリエルは何か大事なことに思い至りかけたが、考えるのをやめて大斧と大剣を両手に構えると大軍勢に向き合った。その戦意を映すように斧と大剣が強く赤熱する。
「迷いは戦いの後に置く。永劫の戦いの後にな!」
永劫回帰獄の戦士の足音と咆哮が再び天地をどよもす。それでも獰猛な笑みを浮かべ、マスティマ・ガリエルだった男の終わる事のない戦いが始まった。
first draft:2023.11.16
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