ナルスラヤの遊女と、ある馬賊の物語・後編

ナルスラヤの遊女と、ある馬賊の物語・後編

 季節が早春から夏に移ろうとしていた。

 赤髪の遊女の手術によって忌々しいやじりもゴードンの肋骨ろっこつから取り除かれ、それは今やカイネ神殿での加工と祈願きがんを経て、ゴードンの新たな護符ごふとして首飾りになっている。長い療養も終わり、体力を取り戻すためにカイネ神殿を一周する訓練を自分に課していたゴードンは、日の暮れる前には世界樹の周囲を回りきり、遂に十分な回復を感じつつ神殿に戻った。

 沐浴場もくよくばで身を清めて、簡素な生成きなりの服に着替えると、部屋に戻っては読みかけの神殿の蔵書を読み、やがて日が暮れれば寝る。ここしばらく同じような生活は続いていたが、健康を取り戻したゴードンはちぎりの日が近い事を赤髪の遊女から聞かされており、どこか落ち着かない気持ちが日に日に強くなっていた。

 ゴードンはふと、部屋に近づいてくる足音に気付く。既に聞きなれた赤髪の遊女の足音に違いなかったが、いつもよりも厳かな空気が感じられた。外から声をかけ、いつものように柔らかな微笑を浮かべて部屋に入る赤髪の遊女の表情もまた、いつもと同じで、しかしどこか違って見えていた。

「すっかり元気を取り戻されましたね」

 いつもなら鳥の声や花の咲き方、あるいは日の照り具合や風の強さなど、内外の微妙な変化から話を始める事の多い赤髪の遊女が、今日は珍しく、黙ってゴードンの様子を見ていた。ゴードンは赤髪の遊女がおよそ何を話すかが分かり、赤髪の遊女もまた、それを理解した空気が漂う。

「『反古ほごちぎり』ですが、明日から六日ほどはちぎりを交わすのに適しているとの事です。ゴードン様の都合の良さそうな時に」

「明日の夜で頼む。あんたに差し支えがないなら。そして、明後日にはここを発つつもりだ」

 ゴードンは赤髪の遊女の言葉の終わる前に自分の都合を話した。赤髪の遊女は束の間驚くような目をしたが、すぐにいつものように、ふ、と笑い、その眼には何らかの理解があった。

「ゴードン様はそうする気がしました。では、明日の夜の就寝の時間頃にお邪魔しますね。その前に、幾つかの決まり事を話しておきます」

 赤髪の遊女は明日の夜の『反古ほごちぎり』に向けて、聖娼せいしょうと契る際の決まり事を幾つか説明した。

 まず、聖娼せいしょうが服を脱ぐ事はほぼ無い事、男は聖娼せいしょうの指示以外で勝手に動いてはならず、基本的には寝たままでよい事、みだりに聖娼せいしょうに触れてはならない事、などだった。しかし、それらは既に療養生活の中で聞かされており、ほぼ形式的な説明となっていた。

「でも、ゴードン様は付き合いが長くなってしまいましたし、既にだいぶご存知ですものね」

「違いねぇ。それに、街の遊女ゆうじょじゃあるまいし、いまさらあんたに迷惑をかける気はねぇよ」

「分かっていますよ。でも……」

 冷たくなってきた夜風に気付いたのか、赤髪の遊女はわずかに開いていた窓を閉めては、再びゴードンに向いた。

「今この時さえ、ナルスラヤの世界樹を通して大地の力が噴火のように噴き出しており、私の魂は強く引き付けられ始めています。ですので、明日のその時は私の魂を強く意識して引っ張っていただけたら嬉しいです」

 ゴードンは言葉なく、しかし強く頷く。赤髪の遊女もまたいつもの柔らかな微笑みを浮かべると、深くお辞儀をして立ち去った。

──ナルスラヤの世界樹せかいじゅの地で聖娼せいしょう『カイネの優しき腕』たちが時に必要とする『反古ほごちぎり』には、他にも様々な神秘があるのです。これを読み解くと神々の見えざる意思に気付けて祝福と悟りを得るとされており、だから聖娼せいしょうたちはこの務めに臨むのです。

──ベルテナ・カラス大司祭著『ナルスラヤの信仰』より。

 その日の夜が訪れた。

 月明かりがうっすらとさす静かな夜、赤髪の遊女はゴードンの部屋を訪れた。『カイネの優しき腕』のドレスが、今夜はいつもよりも純白みが増し、レースの装飾がより多く、花嫁衣裳のようにも見える。

「えらく綺麗だな」

 思わず感想を漏らすゴードンに赤髪の遊女はいつもの笑みを浮かべたが、今日は少し伏し目がちだった。

「これからわずかの時間ですが、私とあなたは婚姻こんいんの関係です。私はあなたの花嫁という事になりますね。では、『反古ほごちぎり』を行うにあたって、祈りを捧げますね」

──顔無き優しきカイネ、私は今宵、大いなる星船ほしぶね沃野よくや預かる者として愛を交わし、その種を受けんと試みるでしょう。人の子として支え合い、それがために大樹の理より離れ、人の沃野よくやとしてあり続けたいのです。

 赤髪の遊女は祈りの言葉を唱え、両腕を広げ、それを胸の前で交差して、抱きしめた何かを胸に取り込むような祈りの所作をし、しばらく目を閉じて祈る。やがて赤髪の遊女は目を開けてはゴードンに向いて微笑んだ。

「それでは、宜しくお願いいたしますね」

──『反古ほごちぎり』は一時的な婚姻こんいんであり、それは人としての務めと魂の確認でもある。このため、子を授かりやすい期間に行われるとされるが、世界樹の呼ぶ大地の力の奔流ほんりゅうとカイネの加護が人の子の魂を寄せ付けず、子が宿る事は無いとされている。

──ベルテナ・カラス大司祭著『ナルスラヤの信仰』より。

 夜明け前、ゴードンはまだ暗い山の参道さんどうを力強く降りていた。体力の続く限り早く、この地から離れたかった。少しでも気を抜くと、持つべきではない幾つかの気持ちがあふれ、それが涙や叫びとして表に出てしまいそうで、それを抑え込むようにひたすら歩き続けていた。

 騒乱多い南方新王国に向かえば、身一つでもその日のうちには兵士の仕事と共に寝床や食事にありつける。ゴードンはとにかく自分を激しい灼熱しゃくねつの中に置きたいと考えていた。ふと振り返ると、もうカイネ神殿はだいぶ高く遠く、雄大なナルスラヤの世界樹に咲く火の花アグラシアの赤い輝きも引いてきて、世界樹の白い岩のような幹がうっすらと浮かび上がり始めていた。

──どうかご無事で。私もゴードン様の強い心を見習って、できる限りナルスラヤの精霊様を慰撫いぶしたい思いが強くなりました。

 自分を笑顔で見送った赤髪の遊女はまた眠りについたのだろうか? 心なしか少し寂しげに見えていたが、それは無い事とゴードンは脚を止めて束の間息を整えた。互いの指を組み合わせて結ばれていた時の話が思い出される。

──なあ、おれはどうしたら、あんたみたいな女に好いてもらえるような男になれる?

──私をそのように? ゴードン様はとても強い心をお持ちなのに。私は今でさえ、世界樹に囚われる事が怖いのですよ?

──あんたがそうなるのは、おれも嫌だな。

 赤髪の遊女は少し荒い息を落ちつけると、いつもとは異なる熱のこもった目でゴードンに微笑んだ。

──人には必ず、一人では決して行けない場所、見れないものがあります。

 赤髪の遊女は固く指を組んで握り合っていた手を少し持ち上げた。

──女にはいつも優しく、丁寧に接するのです。そして……男の人のこの力強い手で、行けない場所へ行けるように、見れないものを見れるようにしてあげると良いでしょう。

──それで、どうなる?

──ゴードン様にとって、必ず誰かが、私か、私以上のものになるでしょう。

 ゴードンは再び足を動かし始めた。山を下りていくにしたがって、自分が生まれ変わって現世に戻るような不思議な清冽せいれつさを強く感じていた。

 壊れて段差の大きな木の階段を大きくまたいで降りた時、汗と共に涙があふれてきてぼたぼたと地面に落ちた。それでも脚は止めない。ただ、自分に言い聞かせるように、あるいは吐き出すように言葉が出て来ていた。

「おれは女ってものも、自分も、世の中も、何一つわかっちゃいなかった……!」

 ちぎりも終わろうという頃に、互いの頬に触れていた事が思い出されていた。

──ああ、やはり私は人なのですね。とても落ち着きます。私はきっと怖かったのです、雄大に過ぎる世界樹が。

──おれもだ。何だかとても……生きている気がする。

 ゴードンは息を整えると、今度はここが戦場であるかのように覚悟をして、慎重に、しかし素早く参道を駆け下り始めた。転んだら大怪我では済まない道を、丁寧な素早い判断を繰り返して修練のように正確に。疾風のように走るゴードンはやがて、日が昇り始めるのを参道の入り口で見ることになった。

 振り向いて見上げれば、既にカイネ神殿は残雪の様に遠い輝きにしか見えない。

「あんたが世界樹に囚われず、人としての生と死を全うできますように」

 ゴードンは自分の道に向き直った。再び、戦乱多い南方新王国へ。そこで自分と世界を存分に知る覚悟で、新たな一歩を踏み出した。

 赤髪の遊女はこの二年ほど後、引退を目前とした最後の儀式の際に、世界樹の慰撫いぶから帰還かなわず永遠に眠り続ける事となった。眠りから覚めない彼女の最後の言葉は、女神ヴァルミスの神託として彼女の寝台に刻まれる事となる。

──炎の如く咲き、花の如く眠る。雄々しき大樹は眠り、戦女神いくさめがみの意思は続く。ナルスラヤの夜に咲く火の花アグラシアが永遠の夢を告げよう。

 この少し後、ゴードン・バルトレルは南方新王国で史上初となる私掠傭兵団しりゃくようへいだん(※国家を後ろ盾に略奪や軍事行動を行う傭兵団)を設立し名をとどろかせ、やがてその義侠心ぎきょうしんの厚さから聖餐教会せいさんきょうかい教導女きょうどうじょフラセルに説得され、南方新王国で悪逆非道の限りを尽くしていた僭王せんおうゲノンを討ち倒し、馬賊王ゴードンとして歴史に名を遺す事になるが、それはまた別の物語である。

──馬賊王ゴードンを導いたとされる赤髪の遊女、モーナ・アルテアナは聖女に叙され、カイネの腕の神殿にて晶化しょうかした世界樹の寝台に収められて眠り続けている。現在も十年に一度ずつ彼女の姿が公開されており、変わらずに強い信仰を集めている。

──ベルテナ・カラス大司祭著『ナルスラヤの信仰』より。

初稿2025.05.13

コメント

  1. ひら やすみ より:

    読了し、深いため息が漏れました。この何とも言えない爽やかさと切なさが共存する様に、どんな適切な言葉が添えられるでしょう。結局、赤髪の遊女は特別な存在でありつつ、また同時に神と一人の男に身を献げた「普通の娘」でもあったのかな――と思い巡らしているところです。人生の気づきを得た上でなおも遊女に向けられたゴードンの最後の素朴な祈りは、その結末はともかく、小さな胸の痛みを伴いながらも物語の結びを越えて温かく響くように感じました。

    • kadas より:

      ありがとうございます!

      それぞれの人生が一瞬交錯しますが、その交錯に限りない価値が見いだせる事はあるものですよね。