ナルスラヤの遊女と、ある馬賊の物語・前編

ナルスラヤの遊女と、ある馬賊の物語・前編

──雄々しきナルスラヤの大樹は悪しき御山を踏み抑える男のいつき女神おんながみとして慰撫いぶせずにおれるものでしょうか?

──麗しのカイネの神託の言葉。

 それがどこの村だったのか正確には伝わらず、その村だったとされる場所もいくつか存在して定かではない。しかしその場所は確かに存在し、その男も確かにいた。失われそうな自分の命を掴み留め、生者の世界から去る事の無いように、溺れる者のように、必死なその男が。

 ひどい金創きんそう(※刃物による傷)の熱だった。男は何度も見た戦場の夢で今夜もまた叫び、胸を掻きむしり、脂汗と共に目覚めては、無理して詰め込んだ粥を全て吐いた。粗末なベッド脇の木桶の水で口をすすぎ、荒れた胃の中にぬるい水を流し込むと、再び横になっては高熱にうなる。

──また吐いている。今度ばかりはゴードンも助からないだろう。

 高熱で苦しんでいた男、ゴードンはこの寒村かんそんの人々が自分の死を案じている事を知り、怒りと共にかっと目を開けると、手を伸ばしては見えざる運命の神の咽を握りつぶすように強く手を握り、真っ赤な顔で体を引きずって起き上がった。さらに、信じがたい怒りでベッドを乱暴に起こすと、壁に掛けてあった剣を抜きはらってはさやを捨て、狂ったように床石に剣を何度も突き立てて火花を散らしつつこれを起こし、爪がめくれるのも辞さずに素手でその下の土を掘り続けては、やがてずっしりと重い壺を掘り起した。

 これらの狂気じみた行いをしている間のゴードンは、目は開けていてもほとんど何見ていないに等しかった。世話になった恩人たちの穏やかな末期の様子だけが鮮明に繰り返されていた。

──その時が来ただけだ。赤髪の遊女に会ってからは、何も怖くない。

──赤髪の遊女が言っていた。死はまた別の旅の始まりだと……。

 今は既に壊滅した小さな傭兵団の団長と、ゴードンに傭兵働きと様々な武技を教えた老傭兵。いずれもゴードンにとっての恩人であり、師であり、そしてもう二度と話せない男たちだった。ゴードンはせめてこんな男たちになりたいと思って戦い、生き延びてきた。

 戦場働きでいつ戦場で命を落とすかわからないゴードンも、いずれ遠いナルスラヤの世界樹の地にいるという赤髪の遊女の元に行こうと考えていたが、もう既に背後には死神が立ち、残された時間が多くないのだと悟った今、赤髪の遊女と会っていない事だけはどうしても悔いになるという強い気持ちがわき上がっていた。

──このまま、あの世になんて行けねぇ! 

 死が近づいても何者でもない自分への怒りに、ゴードンは気力の限り叫んだ。このままでは死ねない。死んでも誰にも顔を合わせる事が出来ないという強い思い。

 何事かと外に集まっていた人々が聞き耳を立てる中、ゴードンは粗末な家のドアにこの壺をぶつけ、割れた壺の破片と少なくない金貨が日の傾いた外に散らばり、驚きの声が上がった。

 ゴードンは狂人のように叫ぶ。

「余った金は皆にやる。もうじき死ぬおれを、どうかナルスラヤの赤髪の遊女の元に連れて行ってくれ!」

 ゴードンを子供のころから知っている村人たちはこの申し出にあつく応えた。ゴードンの傷を手当てし薬を飲ませ、荷車に乗せて遥か北の眠る世界樹せかいじゅの地、ナルスラヤを目指す。道々の役人たちは多くの死出の巡礼者たちにそうするように転移の門の使用を許可し、五日ののちにはその巨大さが視界の大部分をいつも占めるナルスラヤの世界樹の見える地、門前の街バルヤへとたどり着いた。

 果たして、バルヤの街の転移の門を出た村人たちは驚愕で動けなくなった。視界を埋めるような巨大な世界樹のあまりの威容に圧倒されたのである。

 遠い昔、火と岩を吐く悪しき山に神々が投げ込んだとされる世界樹の苗木は、今や火口をふさいだだけでは足らず、たがに等しいその山を真っ二つに割り、梢に星が引っかかりそうなほどに高い。言い伝えによればこの世界樹はこれ以上大きくなってはならず、剪定者せんていしゃたる古き民アールンたちがいない為に世界樹の精霊ナルスラヤも永き眠りについたとされている。しかし眠りについているだけで世界樹は生きており、今でも悪しき山の底から出るはずの溶岩はこの大樹の若枝となって地震と共に一夜にして新たな赤熱する枝を広げる事があるのだという。

 一行が驚いていると、バルヤの街の人々は慣れた事のように親切に声をかけては、この街から見える世界樹について誇らしげに説明をした。この世界樹の威容も素晴らしいが、これはあくまで昼間の眺めであり、夜になれば大地に秘められた強すぎる火の力により、この世界樹の各所に火の花アグラシアが咲いては暗い星空の中に赤い世界樹の輪郭をちらちらと浮かび上がらせ、火の粉のようなそれは見る人々の心にもまた熾火おきびのような熱い何かを灯す力があるのだと語った。これはかつて多くの世界樹を焼いたとされる火と大剣の戦女神いくさめがみヴァルミスによる奇跡だという。

 粗末な荷車に寝かされていたゴードンは村の者たちから興奮と感動に震える声でこの様子を告げられ、脂汗とむしろくずに汚れた顔を上げると、束の間ぼんやりとそれを眺め、しかし何も言わずにまた横になってしまった。意外なその様子に村人たちは顔を見合わせたものの、再び心とらえる景色に話題は移り、その日は夜遅くまで旅が続いた。

──女神多いウロンダリアにおいて、『麗しのカイネ』は顔のない神格であり、『人なる神』なのか『古き民アールンの神』なのかもわかっていない。分かっているのは、彼女が全てのものをその腕に抱く優しき女神という事実だけである。

──神学者ミアルム・ハイタスク著『神々の貌(かんばせ)』より。

 夜風が金創きんそうの熱を冷ましたのか、辺りが静かになった頃にゴードンは目を覚まし、荷車から顔を上げた。ふと、焚火たきびのような熱と赤い光源を感じてその方向を何気なく見やり、言葉を失う。そこに暗い空のほとんどを埋める程のうっすらと赤く輝く世界樹の幹の形が浮かび上がっており、ゴードンが目を凝らすとそれらは無数の小さな赤い点、火の粉のような無数の点の集まりであり、風を送られた熾火おきびの様にゆっくりとその明るさが変わっていた。その知られざる呼吸のようなゆらぎに何らかの意味を感じ取ったゴードンは、赤い光に合わせて静かに息を整える。心なしかいつもより楽でせき込む事もなく、そんなゴードンが起きている事に気付いた村人が声をかけた。

「あれがおそらく、火の精霊の花アグラシアだろうよ。火と大剣の戦女神ヴァルミスさまが、古き民アールンどもの堕落だらくした世界樹を何本も焼いたってぇありがたい花だ」

 しかし、村人の話も終わらぬうちにゴードンはまた気を失ったように眠りに落ちてしまった。

──赤い装束に大剣を携えた火の戦女神ヴァルミスは、ウロンダリアの古き民アールンたちにとって特別な『人なる神』である。多くの世界樹を焼いたとされる伝説によって解釈が分かれてしまい、多くは忌避や恐怖を持たれているが、しかし畏怖や尊敬を集めている面もある。

──神学者ミアルム・ハイタクス著『神々の貌(かんばせ)』より。

 翌朝早く。目覚めないゴードンの寝息が少し穏やかなのを確認した村人たちは、明日にも旅が終わるかもしれない期待感と、見た事もない壮大な景色に近づいていく感動で足取りが軽かった。火山の火口を塞ぎ、割って立つ世界樹。その根本には、残雪のように白く光を返す建物があり、世界樹をぐるりと囲むそれは、顔無き女神カイネの腕を象徴する長城のような形をした神殿であり、男の樹であるナルスラヤの世界樹を抱くように建てられているのだという。

 この神殿には多くの巫女みこと、さらに何らかの儀式を経て厳選された聖娼せいしょぅがおり、彼女たちは夜には世界樹の巨大な魂に触れてその荒々しさと孤独を癒し、しかしそれによって生じた世界樹の精霊との強すぎる縁を人との交わりによって断ち切り、人の縁を取り戻すのだという。この者たちを優しきカイネの腕と呼び、中でも赤髪の遊女と呼ばれる女はしばしば奇蹟を起こすとして、昔から人気を集めているのだという。

 結局、この日に旅は終わらなかったものの、ゴードンの容体は日が暮れる頃に急激に悪化し始めた。触れれば火傷しそうなほどの高熱に、激しい咳。目的地を前にして死するのはあまりに不憫ふびんと、村人たちは夜も交代でゴードンを担いで険しい参道さんどうを上り続け、多くの巡礼者から時に奇異なまなざしを向けられつつも、翌日の昼前には世界樹と火口を取り囲む巨大な神殿にたどり着いた。

 カイネの腕の神殿と呼ばれるこの地には、既に多くの巡礼者や契りの希望者、加護や入信目的であろう女戦士などがおり、土産物屋や飯屋なども盛況だった。しかし、ゴードンの容体が悪いために村人たちにはそれらなど目に入らない。ゴードンから聞いていた手続きの話を手掛かりに、大階段でも荷車を何とか押してもっとも大きな神殿へと向かった。

 聖娼せいしょうと契るには、まず老司祭の観相を受けて良しとされた者だけが少なくない喜捨きしゃを払い、秘められた広場に集められて座し、聖娼たちが世界樹に刻まれた塔からそれぞれが持つ花を一輪ずつ広場に放り、その花が落ちて希望者に触れる事が条件とされている。

 運良く、神殿の衛兵に声を掛けられた一行はにぎやかな正門側とは違う、より高い奥の神殿を案内された。赤いつたの絡んだ両腕を広げるカイネの神像の建つその建物は、ちょうど世界樹の幹の巨大な内向きのへこみを囲むように建てられており、見上げれば白く化石化した世界樹の幹にも所々に大きな窓のような開口部が暗い口を開けている。

 村人たちはいよいよ旅の終わりを感じ始めていたが、しかし集まって来た神官たちは難色を示した。カイネの腕と呼ばれる聖娼せいしょうたちの選別の場には、自力で歩いてたどり着けることが条件で、既に死の予感が出始めているゴードンにそれは難しいのではないか、という話になった。肩を落とす村人たちだったが、突如としてゴードンはかっと目を見開いては荷車を降り、木の棒を支えに何とか立ち上がった。

 ゴードンは村の者たちに喜捨以外の金をほとんど渡すと、鬼気迫る形相でよろよろと聖娼せいしょうの花を受ける場へと向かう。しかし目的地について決死の覚悟が緩んだのか、あるいは命が尽きようとしていたのか、青い石で組まれたアーチ形の門をくぐったあたりで倒れ、ゴードンはこれが自分の死かと考える間もなく、意識を失って全てが闇に包まれていった。村人たちが慌てて駆け寄ろうとしたその時、アーチ門から半分ほど出たゴードンの背中に一輪の赤い花がふわりと落ちて皆が驚きの声を上げる。しかし、既にその声がゴードンに届く事はなかった。

──人の生に様々な形があるように、死もまた様々な形がある。よく考えて生き、よく考えて死ぬことだ。

──詩人セシレ著『ガイゼリック王の言葉』より。

 どれほどの時が流れたのか? ゴードンは何者かが自分の額に触れて熱を、手首を掴んで脈を測っている事に気付いた。身体を駆け巡って焼いていたような熱もおさまり、心か体、あるいは両方に涼やかな風が吹いているような心地よさが感じられている。

 うっすらと目を開けたゴードンは、純白のドレスにヴェールを被った女の後ろ姿を見た。白いヴェールを通してもそれとわかる鮮やかな赤髪に気付いて小さく息を呑み込むと、気配に気づいたのか女はゆっくりとゴードンに振り向き、輝くような長い赤髪が揺れて、黒曜石のような黒い瞳に親し気な光が揺らめく。

「気付かれましたか、ゴードン・バルトレル様。私はこの神殿で『優しきカイネの腕』として精進しょうじんする者の一人です。名を名乗る事は出来ませんが、世間では私の事を『赤髪の遊女』と呼んでいると思います。あなたはずいぶんと私をご所望のようでしたが、縁のあった事と、目覚められたことを嬉しく思います」

 ふ、と微笑んで赤髪の遊女はゴードンの目を見つめた。その様子はゴードンがたまに貴族の屋敷などで目にした聖画の聖女がそのまま目の前に現れたようで、こんな綺麗な女がいるのかとゴードンは言葉を失っていた。しかし、やがて赤髪の遊女が自分の返事を待っていると気付いたゴードンは、まだあまり回らない頭で何とか言葉を絞り出す。

「おれは死んだのか?」

 この言葉に、赤髪の遊女は小さく噴き出して目を細める。

「あなたの死の果てにいる女が私なのだとしたら、それは光栄な事ですね。でも、ゴードン様は死んでおりませんよ。あなたが広場で倒れてから丸四日が経っております。あなたは身を清められたのち、金創きんそうやまいの処置を受けて、しばらくは私がお預かりしているのです」

「処置? おれは助かるのか?」

「もう快方に向かいつつありますね。おそらく、夜にこの世界樹に咲く火の花アグラシアを見たのでしょう? あれは人の体内をめぐる火を強める働きがあり、それであなたの熱が高くなったのですが、あの花は人の身体の病の毒を焼く効果もあるのです。それで、あなたは峠を越えたのですよ。私の見立てでは、あなたの肋骨にはしばらく前の戦でのやじりの先が刺さったままになっており、これが毒を出してあなたを苦しめています。あなたがもう少し元気になったら、私はあなたの胸を少しだけ切り開いて肋骨からやじりを取り除き、腐った骨を削ります。それでやっとあなたは元気になれるでしょう」

「胸を切り開いて骨を削る……?」

 ゴードンは聞いた事のない処置にぞっとした。

「古王国の進んだ医術ですよ。痛みもありません。あなたが眠っている間に進めますから。何より……」

 赤髪の遊女は口元を手で隠してふふ、と笑った。

「私をご所望ではるか遠くからでもその熱意が届き、死に至る病をアグラシアで自分ごと焼きながらも進む方が、こんなところで死にはしませんとも」

「熱意が届いた?」

「はい。遥か遠い闇の彼方から私に向けられた強い思い。それは、夜に雄々しき世界樹の精霊ナルスラヤ様を抱きとめて慰撫いぶする私たちには、魂の命綱のように大切なものです。ですので、ゴードン様が元気になって私とちぎるまでは世話くらいいたしますとも」

 赤髪の遊女が賢い女だという事はゴードンにも理解できたが、その言っている意味がよく分からなかった。自分の強い思いが届いていたというが、それがどのような意味を持つのかが分からない。赤髪の遊女はゴードンの様子を察してか、薬瓶や食事の用意をしながら話を続けた。

「私たちがなぜ、こうして時々誰かと契るかご存知ですか?」

「わからない。あんたはそんな事をする必要が無さそうな女だと思う」

「それは褒めて下さっているのですね?」

 赤髪の遊女は柔和な笑みを浮かべる。その笑顔が屈託なく魅力的に過ぎて、ゴードンは自分の頭が熱で少しおかしくなったのではと不安がよぎった。

「ゆっくりと食事も摂るべきでしょうし、手は止めずにこの勤めの意味をお話ししましょうか」

 赤髪の遊女はゴードンの戦傷いくさきずの処置を進めた。扱う薬や道具は新しいもので手際も良く、高い医術の心得があるらしかった。ゴードンはその様子に感心しつつも、赤髪の遊女の話す『カイネの優しき腕』と呼ばれる聖娼せいしょうたちの役割と危険の話に引き込まれていった。

「遠い遠い昔、火と岩を吹き出しては人々を苦しめる悪神の住まう山の火口に、神々が世界樹せかいじゅの苗を投げ込んだと伝えられています。こうして巨大になったのがこの、雄々しき精霊ナルスラヤ様の宿る世界樹で、世界樹は悪しき山の力を養分として遂にはこの山を割るほどに偉大な大樹となったのです。穏やかになったこの地は大いに栄えたのですが、男の世界樹であるナルスラヤ様にとって、伴侶となる女の世界樹が見つからず、次第に孤独を深めて気性の荒さが出てきたといいます。時折起きる地響きに突風、そして激しい雷雨。本来ならこれらを歌や言葉で慰撫できる古き光の民アールンたちもこの地にはおらず、これを憂いた女神カイネ様が神託を下したといいます」

──この世界樹の恩恵を最も受けているのは人間。よって人間の巫女が精霊ナルスラヤに触れて理解し慰撫をすればよい。ただし……。

 赤髪の遊女は経典をなぞるような語り方で神託を口にし、話を続けた。

「雄々しい世界樹の精霊は、いわば強く優しき永遠の夫のようなものです。何度も触れると私たちはあの雄大な精霊にかれてしまい、そのまま死すると魂が世界樹に還ってしまいます。そうなると来世は人ではなく古き民として生まれてくることになります。それを良しとしない者にとって、人と契り直して世界樹との縁を断つのは大事な事なのです。いわば、繋がりを反古にするための契りなのです。人としての死を取り戻すための」

 死を意識する日々だったゴードンには、この赤髪の遊女の話がとても恐ろしいものに受け止められていた。

「あんたらはそんな恐ろしい事をしているのか。怖くはないのか?」

 赤髪の遊女はしかし、ゴードンの顔や胸の傷の処置に移ってすぐには答えなかった。口元は微笑していても黒い目は仕事に向かうもので、時折その赤い髪やヴェールがゴードンの肌をくすぐり、そのたびに清冽でかすかに甘やかな匂いがする。

「私には戦場でこんな傷を負い、酷い熱を出す方がよほど怖いですよ?」

「……違いねぇ」

 柔らかにやり返されて思わずゴードンは笑い、むせる。赤髪の遊女は小声でびると、ゴードンの背中をさすった。柔らかく温かなその手に、幼い頃に熱を出して母や年の離れた姉に介抱された記憶がわずかに蘇る。しかし、赤髪の遊女の白く豊かな胸元が目の前にある事に気付き、その思い出は消えてしまった。今の自分は子供ではなくとうに男で、だから戦場に出て傷を負っている事を思い出す。

「そういえばちぎる時、私たちは服をほとんど脱がないので、裸や胸を見る事は出来ないと思います。そこはご理解ください」

「ああ、すまねえ。目が行っちまって」

「今はそんな気持ちもあった方が良いですよ。元気を取り戻さない事には」

 ゴードンのせきが落ち着き、赤髪の遊女は傷に包帯を巻く作業に移った。

「私たちの務めの怖い所は、世界樹の精霊様に触れること自体はとても心地よい事です。大いなる自然や意思に触れて孤独から解放された気持ちになりますから。でも、それに身をゆだねては、人としての生と死を失うのです。実際に、帰って来れなくなって眠り続けている方も少なくありません。そうなったら、もう魂を呼び戻すことは難しいのです。私はそうはなりたくないのです」

「あんたはなぜそんな事をしようと思ったんだ? カイネの信徒なのか?」

「何柱かの女神様には祈願が届く事もありますが、でも、私は特にどなたかの熱心な信徒でもないと思っています。そして、自分でもなぜ今『優しき腕』の務めをしているのかもわかりません。分からない事ばかりだから知りたいのかもしれません」

「何を?」

「たぶん……自分を、でしょうか」

 ゴードンの疑問は赤髪の遊女の疑問でもあったらしく、赤髪の遊女は首をかしげて束の間思案する仕草をし、しかし手はまた次の仕事、おそらく食事の準備に移っていた。その様子にはどこか働き者の雰囲気が漂っている。

「なんか、変な事を聞いちまったかな?」

「そんな事は無いですよ。むしろ私も聞きたいのですが、ゴードン様はどうして私との契りを所望したのですか? それが少し気になっています」

「話せば少し長いんだけどよ……」

 ゴードンは寒村からの無鉄砲な旅立ちと、幾つかの傭兵団との出会い、そして自分に戦いの技を教えた老傭兵や、今はない小さな傭兵団とその団長の話をした。いつもどこかで戦争が起きている南方新王国で、彼らは既に名も思い出されぬ過去の死者だったが、その最期をゴードンが看取った事と、彼らが死を前にして赤髪の遊女の話をしていた事を伝えた。

「みんな、若いおれに生きろと言った。生き延びて何かを為せと。あとは赤髪の遊女と契ったら、死をそう恐れる事もなくなると。いつ死んでも悔いのない生き方ができるようになるからと、みんなそう言ってたんだ。でもおれはまだ、何者にもなってねぇ」

「……それで、あんなにも強い思いで私と契りたかったのですね」

 赤髪の遊女は目を閉じ、冥福を祈るように胸に片手を当てていた。しばらくして目を開ける。

「それはとても光栄な事です。……ただ、きっとその人たちが契ったのは、私ではない別の『赤髪の遊女』だとは思います」

「赤髪の遊女って、他にもいるのか?」

「今は私です」

「今は?」

「この神殿の幾つかの不思議ですが、『優しき腕』にはいつも一人だけ『赤髪の遊女』がいるのです。眠る世界樹に火の花アグラシアを呼んでいる、戦女神いくさめがみヴァルミス様の隠された意図があると考える人もいます。ヴァルミス様は大変に美しい赤髪をしていると伝えられていますから」

「……神々の御意思なんて、おれたちにはわかりようもねえよ」

「私もそうは思います」

 赤髪の遊女は柔らかに微笑んだが、しかしゴードンの中には彼女の動機の『わからない』という告白にこそ、何か大いなる神々の意思が働いているような気もしていた。ただ、それを口に出すことはなかった。

「あんたはいつからこの務めに?」

「私は三年前の冬からです。そして、世界樹との繋がりが強くなって誰かと契るのは今回が初めてですね。この『反古ほごちぎり』は何度もすべきではないので、次にナルスラヤの世界樹との縁が強くなったら、私もこのお勤めを辞めるかもしれません。繋がっては断ち、という行いを繰り返すのは良いこととはされていませんから。きっとその頃には次の赤髪の誰かが現れるでしょう。私もそうでしたから」

 赤髪の遊女の話はゴードンの知らないものばかりだった。『赤髪の遊女』が短い間隔で代替わりをしている事も、今自分の手当てをしている、ゴードンの想像を超えた美しさと賢さ、親しみを持っている女が、普通の女の姿をしている様子が想像できなかった。神に仕えるに足る、何か特別な存在になっているか、あるいは『赤髪の遊女』という形を被っているようにも、全くそうでない者の様にも見えて、ゴードンの心は落ち着かなかった。

「よくわからない女、と思いましたか?」

 少し固まっていたゴードンに赤髪の遊女が声をかける。

「そんな事はねえよ、為になる話ばかりだ。ただ、よくわかんねぇんだ。でも……おれが会いたかったのはやっぱりあんたなんだと思う」

「私も、ゴードン様だと思いますよ」

 赤髪の遊女はまた、ふ、と笑った。緩む目元に品の良さが漂っている。赤髪の遊女は首を傾け、手に自分の鮮やかな赤髪を掴んだ。

「私は、自分のこの赤い髪がとても好きなのです。生まれ変わってもこんな赤い髪になりたいと思っています。でも、古き民アールンたちには赤い髪の者はいませんから、私はそれを避けたいのです」

 その赤髪は確かに人間離れした美しさだった。それでも、その理由が重いのか軽いのかがゴードンにはわからず、そのわからなさが心地よかった。いつだったか、南方新王国の小さな城塞都市じょうさいとしの防衛の仕事の際に仲良くなった女が思い出されたが、しかしそれをすぐに消した。他のことに関心を払いたくない気持ちが強かった。赤髪の遊女はゴードンのこれまでの生がそうとは知らずに暗いものであり、そこに光を当てて今後の人生をより明るく照らすような何かに満ちていた。

「何だか沢山話してしまいましたが、ゴードン様はしばらく怪我を治すことに専念なさってくださいね。ご喜捨は十分に頂いておりますし、何より……戦働きは槍が立たねば・・・・・・・・・・始まりませんでしょう?」

 赤髪の遊女の意外な軽口にゴードンは思わず笑い、それでせき込んで胸の傷が痛んでは苦悶して、赤髪の遊女は謝りながら手当を続けた。

 こうして、しばらくゴードンと赤髪の遊女の療養と対話の日々が続いた。既に世界樹の精霊に魂を惹かれつつある者にとって、誰かと話す事は重要であるらしく、その時間はゆったりと、しかし早く過ぎていった。

──世界樹には本来、雌雄が無かったとされているが、『世界樹の時代』の後期から雌雄のある世界樹が現れ始めたとされている。これは、古き光の民アールンたちと世界樹の関りによるところが大きいとされているが、確証はない。

──エレセルシス・ルフライラ著『世界樹』より。

初稿2025.05.13

コメント

  1. ひら やすみ より:

    まだ前編ながら、世界樹とそれを取り巻く神話的世界観に魅せられるあまり、ずっとゾクゾクしながら読ませて頂きました。ゴードンの容体の変化と世界樹の「効能」が見事に歩調を合わせていて、「おお、なるほど」と唸るばかり。遊女が瑞々しさの中で語った最後の洒落(下品に聞こえないのが良い!)とゴードンの反応に、二人に対する私の好感度はますます高まりました。あの二人の出逢いにも複雑かつ神的な導きがあるようで、後編を読むのが楽しみです。

    • kadas より:

      ありがとうございます!

      今回の物語はどうしても書いておきたかったので、果たして結末がどうなるか、楽しんでいただけたら幸いです。