第七話 鉄の駿馬
翌朝。
大国『バルドスタ戦教国』の介入間近の緊張状態にある工人の都市国家のひとつピステ。ルインと、彼に同行する眠り女たちはアゼリアとチェルシーからこの都市へのやや面倒な行程に関する説明を受けていた。
動乱の発生によりバルドスタ戦教国の勢力に包囲され、現在は転移の門のほとんどを閉ざしているピステに入るにはまず、この魔の都からはるか遠い南方新王国にある、聖国と工人たちの共同管理による資源採掘国家ケイメルテへと転移し、そこから工人の技術の結晶である『鉄の駿馬』と呼ばれる機械仕掛けの乗り物に乗ってピステに入り、そこからこの『西の櫓』に転移の門を開通させる、という流れだった。
ここまでの説明をしたアゼリアが、こほんと咳払いをして話を続ける。
「というわけで、お父様ほかあちこちには連絡済みだけれど、新王国のピステの発掘地から鉄の駿馬に乗ってピステに入るのが一番だと思うの。お父様の右腕とされた人が『鉄の駿馬』の責任者だからね。そしてケイメルテは聖国エルナシーサが監督している資源採掘国家だから、監視の目も行き届いて安全よ。……さてと、何か質問や案はあるかな?」
「あれから少し考えたんだが」
ルインが手を上げる。
「はいどうぞ、お兄さん」
「ピステの転移の門をここと繋いだ後、すぐにそのバルドスタ戦教国にも出向き、膠着する時間を作れないかと考えているんだが」
「それはたぶん、手順としては一つの正しい手段だと思うんだけど……」
アゼリアは言いよどんで、近くに立っているチェルシーを見やる。にっこりと笑ったチェルシーは何もない空間から巻物を取り出して広げた。
「えーと、その方法は悪くないのですが、今の効果は限定的かなぁと。実は今のバルドスタ戦教国の政治を握っている勢力って、沢山の眠り女の候補者を出してきたんですけど、ものの見事に全員がその判別から落ちちゃったんですよね。で、気を悪くしたその勢力は大国のくせに眠り人に対しての対応も今一つですね」
ルインは束の間腕を組み、考える姿勢を見せた。
「知らない間に彼らの面子は丸つぶれ、およそすぐに対話の出来る状態ではない、という事か。しかし一枚岩ではないのだろうが、他の勢力は?」
「それは今回のご主人様の対応次第になりそうですよ!」
チェルシーが何か含んだ言い方をした。
「わかった。いずれにせよ自分なりのやり方しかできないがな。しかし……」
「しかし? 何か気になります?」
「そういえば『眠り女』の審査に落ちるとはどういう基準によるんだ?」
ルインの質問に場の空気がざわりと変わった。皆の注意がどこかに、おそらくはチェルシーに向かうような空気があった。チェルシーもそれを察したのかにこりと笑って周囲を見回した。
「あー、ずっと内緒にしていたそれ、ご主人様から聞かれたら答えることになっていたんですよね。だからみんな興味津々みたいで」
楽しそうに皆を見回すチェルシーに対して、何人かの眠り女がそっと目を逸らす。
「簡単に言いますと『自分より何かを大切にできるか?』ですね。以前、バルドスタ戦教国の現在の主流派を占める派閥から来た眠り女の候補は、これがみんな駄目でした。結果、その派閥の面目は丸つぶれになったんですよ」
「なるほどな。今はその連中相手に出向いても話にならないか。しかし、ある集団のえりすぐりの女たちがそれでは色々と先が思いやられるな」
「そういう事です。せめて対等に話し合いをすべき相手だと分かってもらうのが大事ですね!」
「まあでもね」
チェルシーの話をラヴナが継いだ形になった。
「そこに慢心があるから最初は舐めた態度を取って来るでしょうけど、隙もあるって事よ。ルイン様が何をどう動かしていくのか見せてもらうけど、やり方は色々あるはずだわ」
ルインは無言で頷くと、皆に向き直った。
「決まりだな。行ってみよう」
眠り女たちも元気よく返事を返した。今回の旅に同行するのは工人の娘アゼリア、影人の皇女クロウディア、聖餐教会の教導女シェア、さらに、チェルシーとは距離を隔てていても上位魔族の言語で意思の疎通ができるラヴナも加わった。
こうして一行が集会室を出たところで、旅支度をした古き民の女セレッサと、ルインが先日救出した古代の覇王の妾腹の娘、ルシアが待っていた。セレッサが足音なくルインに歩み寄る。
「ルイン殿、銃の拡散を止めるとの事でしたので私にも同行させていただけませんか? 旅の道すがら、私たち古き民の現状についてもお話しておきたいですし、私たちが持つ精霊と語らう力やとても遠くを見聞きできる能力もきっとお役に立てるものと思います! それと……」
言いながら、セレッサは背中に背負っている黒い弓に触れて見せた。
「精妙な弓の腕も、ですね」
セレッサの宝石のような深緑の目が決意に輝いている。
「ありがとう、ぜひ頼む。しかしルシアはなぜ?」
真新しい旅の装束に身を包んだルシアが進み出た。
「チェルシーさんに今の世の中を見聞きしつつ、旅の手伝いをして来たらと言われましたから。荷物持ちでも何でもします! お役に立ちながら今の世の中を見たいと思うんです!」
ルシアの目もまた溌溂とした決意に輝いており、不吉なものが少しも見えないその様子にルインは微笑んだ。
「わかった。手伝ってもらおうか」
さらに二人を加えて、工人の都市国家ピステへの旅が始まった。
──文明の高低は移動手段によってある程度推し量る事が出来る。神々の多い文明では、巨大な星船が世界の壁さえ超える事もあるのだ。
──大賢者ウルボルスト著『文明』より。
黒曜石の都を出たルインは驚愕していた。複雑な凹凸のある滑らかな黒曜石の大城門を出てふり向けば、通り抜けたばかりの大城門はどこにも見当たらず、なめらかな黒曜石の絶壁がはるか上まで続いている。
「前に進めばまた城門は現れるわ。でも、こうして少し離れたらそこに城門はないの。これは黒曜石の魔術的な性質を最大限に生かす技術の一つね」
ルインの驚きに気付いたのか、ラヴナが何もない黒曜石の壁から現れた。
「ついでに言うと、魔の都の地面は何層も存在しているわ。そう見えないだけで積層された都市なのよ。正確な数は魔王様しか知らないんじゃないかしらね? だからこんなに城壁も高いのよ」
「なぜここまでする必要が? それだけ、かつての『混沌』の勢力が強大だったと?」
「そうね、とても厄介よ。今はとりあえず落ち着いているけれどね」
「『混沌』か……」
ルインは独りごちると、大城壁の高さと空を見比べるように見回した。ふと、彼方の空に船のようなものが浮かんでいる事に気付いた。記憶でそれが船の形に近いと分かるが、だいぶ大きく形も違う。甲板部分も覆われた紡錘形をしていて、複数の回転翼のついたマスト伸びており、魚のひれのような帆が横に何本か張り出している。
「船? 空を飛ぶ船ですか? あれは!」
ルインの視線の先に気付いたルシアが目を丸くしていた。
「ラヴナ、あれは何だ?」
ラヴナは視線を少しだけ空の船に泳がせると、何の驚きも無く足を止めた。
「あれは飛空艇よ。水色の生地に白い雲の翼という旗を掲げているから、空の大国レーンフォリアの所属ね。あれはこの魔の都の城下町との定期便だと思うわ。あのような物はここではそう多くないけど、空の国々や聖国あたりでは頻繁に飛んでいるのよ。あれを建造して整備しているのはアゼリアみたいな工人族や、鍛冶や金属加工に長けた背が低くて屈強なスレッギ族、魔法の金属や木材も加工できる小さなドベル族、あとは魔法の研究に長けた青色人たちなどで、ウロンダリアの様々な種族が関わって飛んでいる空の船なのよ」
「面白いな、空を飛ぶ船か」
「わあ、空を飛ぶ船なんて!」
ルシアは黄色い瞳を輝かせて、ぐんぐんと近づいてくる飛空艇に見入っている。先を歩いていたアゼリアが足を止めて振り向いた。
「飛空艇、そんなに好きなら乗せられるよ?」
「本当ですか⁉」
「レーンフォリアにある私たちの都市国家フォッドはほぼ飛空艇専門の都市だからね。この動乱が落ち着いたらピステとフォッドの定期航路も再開できるだろうし、あそこには引き渡しの出来ていない飛空艇もいくつかあるから」
「随分と面白そうな話が出てきたな」
「私たちの専門分野の一つでもあるからね。でも、大きな飛空艇の建造依頼が来ても、途中で施主がお金を払えなくなったり、なんて事もあるわけで、まあ色々あるのよ。なんか生臭い話だけどね。とりあえず、乗せる事は全然難しくないよ」
「これは楽しみが増えたな。今回の件、上手くさばきたいものだ」
「こういう物を見ると複雑な気持ちになりますねぇ。はぁ……」
追いついて来たセレッサは感動とも寂しさともつかない表情でため息をこぼし、ルインに向いた。
「人間たちは様々な種族と力を合わせて、無骨でも力強い空飛ぶ船を造り上げるまでになりました。かつては私たち古き民も、精霊の加護により歌によって海も空も進む船をたくさん所有していたと伝わっています。まあ最近もそんな船の噂は流れていますが、どうしても自分たちの時代の終わりを感じさせられますね……」
ルインが言葉をかける前に、セレッサは微笑んでは深緑のフードを被ると先に進み始める。
「私は私の出来る事をするしかありませんしね」
その声は、フードでくぐもっただけではない哀しみが感じられるものだった。
「これはルイン様、果報の予感よ?」
歩み寄ったラヴナが小声でささやく。
「古き民の女って考え方が古くて面倒なのが多いし、混血は少し心が不安定なのが多いの。あの子は王族だけど今の世の中がちゃんと見えているし、心が押しつぶされそうなほどの現実も良く分かっているわ。ちゃんと力になって信頼を得たら、とても貴重な古き民の王族の女の心はルイン様のものよ? 古き民の女はとてもいいわよ? ……私たちほどではないにしても、ね」
「よくわからないな。自分の仕事をするだけだ」
ラヴナはにんまりと微笑むと、ルインの腕をぽんと叩いた。
「ところで、ラヴナは飛空艇などは心躍らないのか?」
「あたしは自由に空も飛べるし、特に夜の空が好き。だからああいう物はそんなに魅力を感じないかな。誰かとのんびり旅をするのなら有りだけどね」
「そういうものか」
ここで、シェアとクロウディアが滑らかな黒曜石の壁から姿を現した。二人はだいぶ近づいて来た飛空艇を一瞥しても特に関心は示さずに歩き続けている。
「二人もあまり飛空艇には関心なし、か」
「あれくらいの大きなものにゆっくり乗るのは楽しい気がしますね。私は退魔教会の危険なお仕事で、小さくて速いものにばかり乗った事があるので、胃が引き締まるような思い出ばかりです。危険な地域に迎えに来た飛空艇が飛竜に落とされた事もありましたし。あれは本当に心が折れそうになります」
シェアは事も無げにそう言って微笑む。
「飛空艇ね? 聖国のとても格式の高い飛空艇に何度か乗った事があるのだけれど、式典の時ばかりだからドレス姿でずっと手を振っていなくてはならないの。そんな経験ばかりだからか、あまり乗りたい気にならなくて。あ、これは内緒でお願いね」
クロウディアは苦笑気味だった。
二人の話を興味深げに聞くルシアもともに、ルインは城下町の転移門に向かって歩き始めた。隣を歩くラヴナが説明を始める。
「この城下町は『下の街』とよく呼ばれるけど、正確にはアシュグンドといい、『灰の都』を意味するわ。理由は、何か大きな戦争があったらここは灰と化す宿命だからよ。でも、『灰の中からの再起』を思わせるとして、魔の都との取引で一発当てたい人たちには人気の街なの。黒曜石の都に入る資格のない人たちが住み、様々な営みをしている街ね。魔王様がとても大きな転移門を置いたので、かなりの交易都市になってもいるわ。あとは、魔の都の特産品、火薬を買いたい人も多いわね」
「火薬か」
「経済面でも魔の国がとても強い理由の一つよ。魔の国は火薬の生産量がとても多いからね。ああ、見えて来た、アシュグンドの転移門。とても大きいのよ」
話の途中で、ラヴナは大路の向こうを指さす。黒く太い多角柱の構造物が高くそびえ、それは頻繁に若草色に輝いている。近づくにつれて、その若草色の光は転移が起きる際に発生するものとわかり、人々や荷車が頻繁に表れては消えていった。一行はやがて、見上げるように大きな多角柱の構造物と、それを囲むような黒曜石の石畳が放射状に敷き詰められている広場にたどり着く。
「さてじゃあ、全員揃ったら私が作動させて南方新王国の資源生産国ケイメルテへと向かうわね。皆、準備はいい?」
見回しつつ呼びかけるアゼリアに全員が応えた。アゼリアは微笑むと皆に背中を向けて転移門に触れる。
「遥かなる旅人、偉大なるエンギネアの血を引くは我ら工人なり。門よ、しかるべく此方より彼方へ!」
転移門と呼ばれる大きな柱は若草色の光に輝き、ルインの視界もまた同じ色の光に包まれた。一瞬の後、視界が切り替わるように見慣れない景色の中に立っている事に一同は気づく。低い木造の建物の多い、全体的に白茶けた埃っぽい街並みが続いている。
「ん、変わりないね。既にここは魔の都からもの凄く遠い南方新王国の国、資源採掘国ケイメルテの首都よ。首都と言っても、この国は全体が広大な鉱山みたいなもので、聖国と私たち工人が共同で管理しているの。そうでないと激しい戦火で安定しないような価値ある土地だからね。まあそれで、私たちは『鉄の駿馬』の駅の一つをここに造ったんだけど」
アゼリアは言いながら、土地勘があるのかいずこかへと歩き始めた。
「みんなついて来て。駅は向こうだから。ここは役所が集中している地域で、 工業地帯との境に『鉄の駿馬』の駅があるのよ」
「アゼリアさん、この街、聖餐教会の施設がありませんでしたか」
周囲を見回していたシェアが問う。
「大きな病院があるよ! 教会も駅の近くにあるね。仕事で身体を痛めた人や、歳をとって引退した身寄りのない人たちがお世話になってるわ」
「やっぱり。確か、『鉄の駿馬』の沿線には私たちの施設が多かったはずなのです。昔の工事の時に多くの作業員を支えた名残ですね」
「そういえば、そうだわ。特に協定は無いけどそんな形になってるね」
アゼリアとシェアは鉄の駿馬の事業に絡んで、工人と聖餐教会のかかわりについて話しつつ進んでいく。やがて、一行が進む道の彼方に広場とレンガ造りの横に長い建物が見え始めた。
「あれが『駅』ね。もうすぐ午前の便が到着するはず。手続その他を進めるから、みんなは駅舎の土産物屋でも見てて。そんなに大したものは無いけど、鉱物の標本とかなら売ってるから」
人のまばらだった街とは異なり、駅はそれなりに人も多い。しかし、ほとんどすべての人々が何かにとりつかれたよう強い視線を向けて来ていた。その違和感をルインが口にしかけた時、ラヴナが慌てた様子で指を鳴らす。振り向いたルインには、ラヴナが一瞬で黒づくめのマントとフード姿になり、顔が陰になって見えなくなった。
「魔族の貴族の女はみだりにその姿をさらさない決まりなの。特に私のような魅力に溢れる種族はね。この姿はそんな魔の貴族が人間の世界を旅する時の物よ。分かる人にはやんごとない魔族の女だとすぐにわかるから、話も通しやすいし、揉め事も避けやすいと思うわ。でも……!」
ラヴナの姿はまた元のワンピース姿になった。
「みんなとルイン様にはいつもの姿が見えるようにしたわ。これで問題なし! あたしはあたしでちょっとだけ手続きがあるのよ。とても良い客室を使えるようにね」
煉瓦造りの長い駅舎にたどり着いた一行は、乗車手続きをするアゼリアやラヴナと、そうでない者とに分かれる。しかし、ほどなくしてやや緊張気味の声が拡声器で流れた。
──高き国々の、特にキルシェイドの貴賓様方がお見えです。係員はくれぐれも失礼のないように。
駅の人々の空気がざわつき始めた。
「キルシェイド? おれたちの事か?」
土産物屋の鉱物標本を見ながらルインは誰にともなく問う。隣でガラス瓶に入った鉱物標本を手に取っていたシェアがルインに目を向けた。
「キルシェイドは魔の国の事ですよ。ラヴナさんが手続しておられましたから、私たちのことで間違いないと思います。人間社会では魔の国の事をキルシェイドと呼んでいますね。なんでも、『影を慕う地』という意味になるのだそうです」
「また意味深だな。何か由来が?」
「とても女性が多い魔の国には、孤独な『寡婦』の宿命を持つ不死の魔族の姫様も多く、だから『影を慕う地』という呼び名になったとも、あるいは魔の国のはるか上、空の浮島に眠る古き片翼の邪竜『六本指のキルシェダール』の名にちなんでいるとも聞きますね」
「ずいぶんと興味深い話になるんだな」
「私も詳しくは知らないのですけれどね、ラヴナさんなら何かご存知だと思います」
「呼んだ?」
ルインとシェアのすぐそばにラヴナが姿を現した。シェアはガラスの標本瓶を驚いて落としそうになり、それを素早くつかみ取る。
「ラヴナさん⁉」
「驚かせたわね。視線が面倒なので姿を消してここに来たら、面白そうな話をしてたから聞いていたわ」
「いえ、気配まですっかり消えてて驚きました」
「そりゃあね。で、魔の国の名前の由来の話ね。シェアさんの説明でほぼ良いのだけれど、正確には『影を慕う者』六本指の邪竜キルシェダールの名前が由来ね。でも、人間社会では彼女の印象はあまり良くないのよ。古代に大暴れして、その声で幾つかの山脈を天空に放り投げてしまったからね。なので、私たちは人間たちと融和しやすくなるように、寡婦の多い魔族の姫たちにちなんだもっともらしい説をじわじわと流布したってわけ」
「人間社会では、大暴れしたキルシェダールは英雄に片翼を切り落とされた話になっていますものね」
「実際にはそんな単純な話ではないっぽいけど、そうね」
「キルシェダール……」
ルインはその名前に聞き覚えがあり、辿れそうな記憶が一瞬よぎった。豪奢な寝椅子に座る堂々とした翼と角のある女の姿が蘇りかけた。
──まあ、そんなに暇ならここで私の話し相手でもするんだな。時の終わりまで寡婦でい続ける女に親切にするのは、男の徳みたいなものが積み上がる行いだぞ。
「どうしたの、ルイン様」
ラヴナが怪訝そうに声をかける。
「ああ、何でもない」
巨大な邪竜と似ても似つかぬ女の姿に繋がりなどないと考えて、ルインは一瞬浮かんだ記憶のようなものは気にしないことにした。丁度その時、駅舎内に鐘が鳴り響く。『鉄の駿馬』がもうじき到着するという案内とともに、人々の動きは慌ただしいものになった。
ルイン一行もまた発着場へと急ぐ。四条の鉄のレールがどこまでも伸びており、西の方からもくもくとした煙と共に、聞いた事のない叫びのような音が響いた。同時に、半透明の黄色い光の壁が立ち上がって線路と発着場を隔てる。
──落下防止柵が発動しました。誤って触れると動けなくなるので距離をお取りください。
「あの音は『汽笛』というのよ。蒸気で鳴らす笛ね」
次第に近づいてくる『鉄の駿馬』に誰ともなく声を上げる。重い音と共に迫りくるのは武骨な鈍色の機械で、白い煙を吐き出しながら迫るそれは、鉄でできた塔を横倒しにして幾つかの車輪を付けたような先頭に、長く伸ばした馬車の客室を幾つも繋げたような形をしていた。
「あれが『鉄の駿馬』か!」
「何と武骨で、しかしそれでは言い尽くせぬ力に満ちているんでしょうか! 私たちが人間たちに敗れるのもどこか腑に落ちてしまいますね……」
古き民であるセレッサの感動にはしかし、どこか寂しさが漂っている。
「未来って、すごいですね……!」
セレッサとは対照的に、ルシアは目を輝かせて言葉を失っていた。
「まあ、とても頑張ってはいるけど、これは魔術への理解を遠ざける性質があるわね。それはひいては世界を見誤りかねないって事だけど、まあ人間には難しいかな」
ラヴナは珍しく意味深な言葉を漏らした。意外な事にクロウディアが頷く。
「分かります。見える物だけで組まれていますよね。それはそれで素晴らしいけど、無視し過ぎというか……」
「そうなんですね」
二人の言葉に同意しつつも、『鉄の駿馬』を見る目の輝きが誰よりも強いシェアの様子に、みんな微笑みはしても指摘はしなかった。
「みんなの考え方の違い、何だかとても参考になるなぁ。それだけでも私としては価値があるよ! じゃあ、長旅になるのでそんな話もしましょうか」
皆を見回して微笑み、客車に向かうアゼリア。こうして、『鉄の駿馬』での奇妙な旅が始まった。
──工人たちの作った『鉄の駿馬』は、工人たちの都市国家の地下にある『鉄墓場』に漂着した古い鉄塊を分解・研究した上で復元された他世界の技術の一つだ。この性質により、工人たちは聖国と密な関係で保護されてもいる。
──モーデン・コールイ枢機卿著『工人と聖国』より。

改稿版初稿2025.08.15
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