女神イシュクラダの誘惑

女神イシュクラダの誘惑

 月と陰謀いんぼうを司ると語る女神イシュクラダの領域『イシュカの月の園』。

 満月と暗月あんげつ、二つの月が浮かび、金銀の百合ゆりが輝く粒子を穏やかな夜風に乗せるこの美しい場で、女神イシュクラダはダークスレイヤーのひざの上に横座りし、彼の首にそのしなやかな腕を絡めていた。

「いくら何でも親しみに過ぎないか?」

 ダークスレイヤーは表情を変えず、しかし困惑を口にした。

「こんなものでは足りないと思っていますよ? でも、あなたは何も求めようとしないご様子。ですので、女神おんながみの作法の話をしようかと思います」

 イシュクラダはダークスレイヤーに身を預けた姿勢で、その涼やかな声と振動が心地良く伝わって来ていた。周囲を漂う百合のような花のものとはまた違う、イシュクラダ自身の甘やかで清冽せいれつな香りもまた、ダークスレイヤーの心をくすぐる。

「作法?」

「あなたはとても男ぶりが良いご様子。神またはそれに等しき力ある女がこうして膝の上に座った時は、しとね(※ベッドの事)を共にしても良いほどに信頼し、身と心をゆだねている証なのです。今後の為に覚えておかれると良いでしょう」

「つまりそれを教えてくれたと?」

 イシュクラダは優雅な身のこなしで舞うように立ち上がると、おかしくてたまらない様子で口元を隠してしばし笑った。

「それだけでここまでしませんとも。私は時に自分さえ御せないことがあります。これは私の女ぶりが良すぎるせいだと思っておりますが、よくよく考えれば私を御せる方がいない世界のほうに問題があるのではと」

 この話にダークスレイヤーがふと笑った。

「お笑いになりましたね。でも、悪い笑いではないご様子ですね」

「君は確かに女神おんながみとしても素晴らしい魅力と美しさを持っている。だが、そのような者たちでさえ、ここまで長く自分を保てぬはずだ。君は別格に位の高い、何か重要な意味のある存在ではないのかと思ってな。あるいは、失礼が無ければだが、とても位の高い何者かのうつか? だから自負はもっともだ。清々しいくらいで好感が持てる。ただ……」

 ダークスレイヤーは言いかけた言葉を止めた。原初の女神たちほど世界や神々を生み出す『ははなるかみ』と呼ばれる属性を持ち、多くの場合その姿はきわめて豊満で魅力的だとされていた話を思い出していた。しかし、イシュクラダはすらりとしている。

「『母なる神』について言おうとしましたか? それで言い澱んだと」

「ああ。『母なる神』に属する存在とは違うのかと」

「私の見た目は確かに、よくささやかれる多くの『母なる神』の資質を持つ者たちとは違って見えるかもしれませんね。でも、それは着こなしによるものですよ。それならば……」

 イシュクラダは小さな銀色の布を取り出してさっと振り、その場に精巧せいこうな銀の玉座が現れた。月の光に包まれてその衣装は肩も腕も脚も露わな煽情的せんじょうてきなドレスとなり、微笑みつつ銀の椅子に座っては脚を組んでみせる。先ほどまでの印象とは違う、豊満で魅力あふれる姿となった。

「私は母なる神の資質も持ちます。あなたと婚姻してちぎり、複数世界を統べる神群を産み落とす事も可能ですね。それもあなたが私に掛けられた神々の呪いを解いたからです。お望みなら……私を存分にかなでてみますか?」

 イシュクラダの言葉と表情には恥じらいがあり、頬を赤らめて目を伏せた。これは多くの者はその魅力に逆らえないであろう強烈なものだった。男が望むものは全て与えうる魅力。しかしダークスレイヤーにはイシュクラダが自分の本心よりも誠実に礼や筋を通そうとしている姿が見えていた。それゆえの照れだと読み取った。

「恥ずかしいならそんな姿を無理に取る必要はない。女神の恥じらいは見たら寿命が万年延びると言うが、おれは君を自由にしただけだ。何か差し出そうとする必要などない。そろそろ……」

 ダークスレイヤーは立ち上がり、ここから立ち去らんとする雰囲気が漂っていた。

「恥じらいは感じておりますが、嫌ではありませんよ? お気を使わずに、むしろ言葉をかけていただけませんか? こんな姿は誰にでも見せられるものではありませんから」

「おれは戦うしか能がない。こんな時に詩人の様に言葉が出る男ではないのだが」

 言いかけたダークスレイヤーはしかし、イシュクラダの眉が今にも哀しみの弧を描かんとしているようにも見えた。

「……とても美しいし、魅力的だ。こんな表現しかできないがな」

 イシュクラダは恥じらいに赤面しつつも、喜びがそれを超えて目を細め、月の光があたりを昼の様に眩しく照らした。

「私が求めていたのはそれです。たけ武人ぶじんの飾りのない褒め言葉。まるで輝く白金の大きな塊をごとりと目の前に置かれたような気持ちになります。私ほどになりますと、それはもう精巧に飾られた工芸品のような言葉も随分頂きましたが、どうにも言葉を放つ方の魂の重みと申しますか、そのようなものに惹かれる性分のようです」

 イシュクラダはどこまでも広く自分を塗りつぶしている表層と、深層の自分が唯一共有できる思いの言葉を放った。このまま表層の言葉と視線で、目の前の好ましい男が自分を捕まえ、存分に奏でられる事になっても良いと思うと当時に、秘めた深層の自分が塗りつぶされてしまう恐れもまた強くなり、張り裂けそうだった。

 熱っぽく、全てを受け入れる欲望の光がけぶる目を男に向けて、イシュクラダは黙った。

──あなたの表層に貼り付いた、『あの女の姿』を引きはがさない限り、あなたは幸せになれないわ。

 聴色ゆるしいろ(※ピンク色に近い色)の髪をした女が遠い昔にイシュクラダに放った言葉がよみがえる。

 明らかに誘われていると理解したであろうダークスレイヤーの目はしかし、静かなもので眉一つ動かなかった。注意深くイシュクラダの目を見ている。その沈黙は長く続いた。

 なぜ、何の言葉も発しないのか、立ち上がって自分の手を取らないのか? そして立ち去りもしないのか? イシュクラダは自分の心の奥底から、長く捨てていたはずの希望がかすかな光を放ち始めた事に気付いた。そして、それが自分を気高い悪女ではなく、一人の小娘の様に弱くしてしまいかねない事にも。

「苦しい……」

「……一つ聞かせて欲しい」

 思わず口から出た小さな言葉は、ダークスレイヤーの質問に打ち消されてしまった。

「何でしょうか?」

「男と寝る事を望んでいる目のようで、女が命を懸けて何かを守る、あるいは賭けている時の目だ。もともとそんな気はないが……そんな目をする女はなおさら抱けない。おれに話せない事なら立ち去るが、話せることなら聞こう」

「ああ!」

 イシュクラダは顔を伏せ、輝く涙がいくつもきらきらと落ちてはその美しいももを濡らした。

「大丈夫か?」

 ダークスレイヤーの問いにはしばらく応えず、イシュクラダの嗚咽おえつはしばらく続いた。やがて、ふらりと立ち上がって顔を上げると、涙に濡れつつも喜びに満ちた笑みを浮かべ、その様子はどこか悪女らしい威厳が少しだけ柔らかくなったように見えていた。

「あなたは今、無限世界イスターナルで最も面倒な女を救っているのですよ」

 しかし、ダークスレイヤーは表情を変えず、何も言わなかった。

 おぼつかない足取りでダークスレイヤーに歩み寄ると、倒れるようにその身を預け、今度はダークスレイヤーもそ輝く肌のあらわな肩に腕をまわした。イシュクラダは顔を上げて微笑む。

「もっと先の『作法』の話をしますね」

「身体や心を許す以上の作法があると? それにおれは何も」

「いいえ、私がもらい過ぎです。そして作法の話ですが、もしも女神おんながみがその肌をさらしたら、決して目を逸らさないでくださいね。あなたにだけ覚悟をして見せているのですから」

 イシュクラダはダークスレイヤーからそっと離れ、銀の椅子の傍まで行くと何かをかかげるように両手を上げた。一瞬で全てが闇に包まれ、今までよりもだいぶ蒼く暗い月が浮かび、ぼんやりと周囲を照らしている。

 さらに、イシュクラダを中心として淡い光をたたえた泉が現れた。

「名を消された好ましい方、決して目を逸らさないでくださいね。私の肌を見るのはあなただけなのですから」

 ダークスレイヤーに向き直ったイシュクラダは腰のあたりまで泉に浸かっており、その白い肌はあらわで、のドレスはすでに消えていた。豊かな胸元を隠していた両手をゆっくりとおろし、その銀の瞳でダークスレイヤーを見つめる。

「今の私こそ真の私です。先ほどまでの私は、あなたを好ましく思う部分は偽りなくとも、ある女そのものの、いわば表層の姿だったのです。あなたはそれを超えて真なる私に声を掛けました。だからこうして、わが身を惜しまずあなたに見せています」

 イシュクラダは月のほうを向き、泉に映った自分の姿を見ながら艶めかしく身を清め始めた。

「全ての女が必ずする事があります。それは水や鏡に自分の姿を映し、より愛されるものにならんとする行い。それを最初にした女の姿を持ち、より愛されんと、より理想的な己にならんとする女の心。私はそれを司っているのです。多くの月の秘密を知り、女のかげはかりごとも得意ではありますが」

 イシュクラダは腕を洗い清め、次はダークスレイヤーのほうに向いて髪を洗い始めた。豊かで完璧な美そのものの胸を隠さずに話を続ける。

「名前を消された最初の女、たまにリリスとも呼ばれるその女が闇の中に生まれ落ちてまず行った事は、月と泉を創り出してこうして自らの身を写し見ては、誰からも愛される姿を追い求める事だったとされています。私はその女と同じ姿をしているのです。ただ……」

 イシュクラダは少しだけ歩み寄り、膝から上が全てあらわな姿になった。

「その女は自由に過ぎ、多くの力ある男性存在と契り、数えきれないほどに多種多様な子を無数の世界に生み落としました。しかし、つまるところ多淫たいん奔放ほんぽうに過ぎて、姦婦かんぷののしられて存在しなかったことにされています。それはこの無限世界で、女を見下してよいものとした考え方の始まりでもありました」

 話が終わると、イシュクラダはその豊かで柔らかそうな胸を手で隠し、ダークスレイヤーに背中を向けた。

「そのまま動かないでくれ」

 ダークスレイヤーの静かな声が響く。そこに欲望を感じさせるものは全くなかった。ほぼすべての女を凌駕する自分の身体を見ながらも、ここまで静かな声で話せる男は演技でもあり得ず、そしてまったく演技ではないことにイシュクラダは気づいていた。それだけに、背後の男が何を言うかが読めず、拒絶の言葉であれば恐ろしい未来しか残されていない恐怖が心に忍び寄っていた。

 沈黙はしばらく続いた。イシュクラダは全てを誤魔化すように振り向いて駆け寄り、この男に抱き着いてしまいたかった。しかし、それをしようとすれば心底軽蔑されて嫌われてしまうかもしれず、それは出来なかった。およそどんな男も篭絡ろうらくできるはずの魅力と身体が通用しない事、その怖さにわずかに嬉しさが勝っている。

 この男は何を見ようとしているのか? それが全く分からなかった。

「最初の女という存在。魅力と煽情せんじょうに過ぎたのだろうが、君は確かに少し違うな。その女とは恐らく違う理想を持っている。あるいは……その女が落としてしまった理想を、か?」

「もう振り向いても良いですか?」

「良いが、もう身体は隠してくれ。今これ以上何かを進める必要もないだろう?」

「私の事はお嫌ですか?」

「おれも男の部分は残っている。君はきわめて良い女だとも思う。しかしそれと、おれの旅や戦いはあまり関係のないものだ。むしろ危険にさらしてしまいかねない」

 しかし、この言葉にイシュクラダの黄金の眉毛が険しく上がった。

「見くびられたものですね。ここまで心身をさらして私を丸裸にさせておきながら、あなたと共に歩んで訪れる運命を私がいとうとでも? たとえどれほど惨たらしい……例えば、股から杭で串刺しにされ火であぶられようと、私は神命しんめい尽きるまで愛をささやいてみせましょう」

「待て、これだけ位の高い君は確か二度と捕まらず、そんな目にもわないはずだが」

「ここで野暮な事を言わないで下さい。そうやってそでにでもするおつもりなら……」

 イシュクラダは躊躇ちゅうちょなく水音を立てながらダークスレイヤーに歩み寄ると、その手を取って、自らの柔らかな胸元へと導いた。

「おい何を」

「男ぶりが良いなら気にならないはずでしょう? ここまでして何も起きないのは、女としては心細過ぎるのです」

 ダークスレイヤーは短く息を吐いた。

「ああ、分かった。分かちがたい運命みたいなものを望んでいるんだな? しかし、『人のちぎり』は無しだぞ? 君が時に囚われるのは避けたい」

 ダークスレイヤーの身を包んでいた鎧が消え、簡素な黒い衣装の姿に変わると、裸のイシュクラダを軽々と持ち上げて石の台座に座り、その膝の上にイシュクラダを横座りさせた。

「おれは女を探して旅をしているのではないのだがな」

「私はあなたを探しておりましたけどね。そもそも、何ですかこの手!」

 イシュクラダはダークスレイヤーの手を取ってまじまじと見つめた。

「武人の手は多くの武器を長い間握り続け、何度もまめが破れては岩のような手になる事が多いものです。なのにあなたの手と来たら、その痕跡はあってもとても綺麗な大きな手。こういう手はその気がなくとも沢山の女に触れる悪い男の手です。私さえ絡めとられてしまったでしょう?」

「巻き込まれたのはおれのような気がしているが……」

 イシュクラダはダークスレイヤーの話を気にも留めなかった。

「その心に触れさせてください。けがれなき神のちぎりとして」

 イシュクラダはダークスレイヤーの首に再び腕を回し密着した。月の光のように冷めた、しかしその奥はどこまでも深く温かな感覚がダークスレイヤーの全身に触れ、その願いが流れ込んでくる。

──どうか、写し身ではない私がずっと自分を追い求められるようにと思っていただけたら。私の長い旅が孤独と闇に塗りつぶされぬように、わが心の沃野よくやにそびえる、不動の柱となって下さい。

 暗い空に浮かぶ蒼銀の月の光が全てを照らすように、冴えた暖かな光が全てを包んでしまい、ダークスレイヤーは目を開けていても何も見えなくなってしまった。

──魔術を学ぶにあたり、多くの始まりに疑問を持つ目と心を持つことが大事である。例えば、女たちはなぜ自分が鏡や水面に己の姿を映すのか? 誰もがそうするがその理由を語れる者は少ないだろう。魔術とはこのような疑問への旅である。

──著者不明、禁書『写し水の伝授』序文より。

 ダークスレイヤーが目覚めると、そこは女神イシュクラダが囚われていた『あらし虚海きょかいの塔』の部屋だった。自分にかかる重みと温もりに気付くと、イシュクラダが寄りかかって寝息を立てており、しかしすぐに目を開ける。

「あら、あなたの方が先に目覚めましたか」

 起きて立ち上がったイシュクラダの衣装は白い肌着にの衣装をマントのように掛けたものとなり、部屋着のような雰囲気があった。

「今後、あなたと会う時はこの姿でいましょう。正装ではなく部屋着姿のようなもので」

夜着よぎのようにも見えるが」

「心はいつもあなたの寝所と共にある、という意味です」

「よくわからないが、おれに女の心などわかろうはずもない。これからどうするつもりだ?」

「この場所は現世の一部。神々のかせより解き放たれた私はもう、どこへ行くのも自由です。私に御用がある時は月に念じてください。いずこからでも姿を現しますとも。そして……あなたの旅の目的は永劫回帰獄ネザーメアから出る事、でしたよね?」

「なぜそれを……いや、心が触れたからか」

「はい。隠れし神々が現世うつしよ永劫回帰獄ネザーメアの間に創った門の一つを打ち壊して現世に出で、その経緯を概念として焼き固めるのです。永劫回帰獄と、その地獄の門の概念を。あの鍛冶神様なら可能です。そして、その剣こそは神々の創りだした矛盾。いかなる神もその刃から逃れる事は叶わないでしょう。あなたは自由なる旅の戦士となり、傲慢ごうまんな何者をも葬れる存在となります」

「何だと⁉ 待て、それは全てを創ったとされる『隠れし神々』でさえ……」

「逃れる事は叶わず、殺せるか、少なくとも深手を負わせることはできるでしょう」

「何という事だ、君がその手掛かりを知っていたのか……」

「写し身たる私の中に残った自我と理想。あなたは魅力に過ぎるあの女の姿に惑わされず、私のそれに触れたのです。なのでささやかなお返しですよ。傲慢な神々にその背理はいりを突き付け、矛盾を問うと良いでしょう」

「これは予想もつかなかったな」

「時には得体のしれない女に触れてみるのも良いものでしょう?」

「すまなかった。おれなりの気遣いのつもりだったが」

「分かっておりますよ、見知らぬ怪しい女にも優しいお方。でも今後はもう疑わないでくださいね。あなたが知りたい事はすべてあなたの心に伝えましたから。それでも、直接お話が出来たら嬉しいですけれど」

「わかった。何かと聞きたい事もある。今後はそうさせてもらおう」

「以降、私の事はラダとお呼びください。愛と親しみを込めてラダ、と。それでは、ひとまず失礼いたしますね」

「分かった。また会おう、ラダ」

 満足げな微笑みを浮かべたイシュクラダは丁寧に一礼をして姿を消してしまった。重要な神託を受けたダークスレイヤーもまた、拳を握って黒い炎を上げると、不敵な笑みを浮かべて部屋を後にした。

──ダークスレイヤーの揮う最悪の魔剣ネザーメア。永劫回帰獄ネザーメアの概念をそのまま焼き固めたこの恐ろしい剣の製法を彼に伝えたのは、月と陰謀の女神イシュクラダだという根強い噂がある。

──賢者フェルネーリ著『ダークスレイヤー』より。

 現世ではない、夢の様に時と意識のみが存在する世界『夢幻時イノラ』。その最奥には輝ける宮殿と、その宮殿を中心としてどこまでも花園の広がる秘められた領域があった。

──『嵐と花の宮殿パルナ・ガル・ゴータ

「あら、来たのね」

 色とりどりの暗い空に蒼銀の満月が上り、窓からそれを見上げていたこの宮殿の主が言葉を漏らす。背中の開いた白いドレスに長い聴色ゆるしいろの髪をした女が、窓から背後に振り向いた。

──無限世界イスターナル二番目の美女とされる存在『不機嫌なセア』

 セアは満足げに微笑むイシュクラダの様子を見てため息をついた。不機嫌にも見えるその顔はそれでも美しさと慈愛に満ちている。

「何も話さなくていいわ、理解したから。そうでしょう? ラダ」

「その名で呼ばないで。恥ずかしいわ」

 イシュクラダは赤面して顔を伏せる。

「何も恥ずかしがることはないでしょう? 『本物』に出会えてその名前で呼ばれるようになったあなたもまた本物になったのだもの。その名は誇るべきよ……まあ、あの人は少し心地よい感触があっただけでしょうが、あなたはずいぶんと楽しんだでしょうしね」

「……セア、やめて」

 屈指の悪女であるイシュクラダが、セアの言葉には形無しで照れていた。セアは気にも留めずに窓の外の花園を見やる。一見美しいその花園は、よく見れば枯れてしなびた花も少なくなかった。

「まあでも、喜んでばかりもいられないわ。やがて始まるでしょう、『時の終わり』が」

「そうなるわね……」

「そして、なるべく多くの花を枯れないように守り続けなくてはならないわ。あなたが救われたように。本物であるあの人ならそれが出来るわ」

 謎めいたその言葉に、イシュクラダは広い宮殿を見回した。

「モーンにエデス、そしてサーリャ……皆の運命を救い、この最後の花園だけは残したいものね」

 現世から遠く離れた場所での二人の剣呑な美しい女の語らいが何を意味しているのか、この時はまだ誰も気づいていなかった。

──リリスに最も愛された娘と伝えられるセアは、母の次に美しい姿をしているとされ、無限世界で二番目の美女と言い伝えられている。その表情はいつも微妙に不機嫌であり、故に『不機嫌なセア』と呼ばれるが、彼女の魅力はその不機嫌さにあるとされている。

──大賢者オルモッサ著『無限世界イスターナルの存在』より。

初稿2025.05.23

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