赤い秋、杣人の姫
──我らは杣人なり。古き民を追い払い、世界を騙る黄金の大樹を切り倒し、大地を我らのものとした。黄金の大樹は悲鳴と共に血のように色の変わる木々をばらまいて地を埋め尽くさんとしたが、我らは全て斬り倒さん。
──ハーシュダイン最古の杣人の歌。
極美にして上位の女神たちが集められた、永遠の蒼い城リュデラーン。その城の一角にあるのは、場違いなほど粗末な馬小屋だった。
神々の呪いによりとうの昔に眠りを失っていたダークスレイヤーは、朝の訪れを感じて目をあけた。形ばかりで眠りでも休息でもないそれは、ただの行動の切り替わりに過ぎない。その多くは次の戦いの始まり。しかし、今はそうではなかった。
女神たちの住まう城の、蒼く輝く城壁も今朝は冷たい霧に覆われ、幾つかの世界の深まる秋の朝にも似ている。ダークスレイヤーはそれをつぶやこうとした。
「まるで冬に向かう秋のような冷たい霧。嫌いではないけど随分と哀切の気配が。こんな日は……」
自分の言いたい事をそのまま言い、さらに先回りして初耳の情報を興味深く織り込む声の主にダークスレイヤーは振り向いた。粗末な丸木のテーブルと椅子のあった場所が豪華な寝椅子に変わっており、黒い衣装と輝くような銀髪の女神が足を組んで座っている。
──青い城の女神の一柱『喜びのシルニーズ』。
何か? とでも言いたげな微笑みを浮かべるシルニーズの頭には小さな猫の耳が生えており、ダークスレイヤーが目を向けるとそれは消えてしまった。猫の耳がある時は冗談とも本気ともつかない難解な話をし、耳が消えると真面目な話をするこの女神の特徴を知るダークスレイヤーは、座って向き合う。
「何か大事な話が?」
「静かに。こんな日は聞こえるのよ。それは少しずつ大きくなっていってる。あなたにも聞こえるはず」
シルニーズは猫の耳を出した。それが可愛らしく動く。
「何か冗談を言うつもりなら……」
「これは冗談を言うためではなく、本気で聞き取るためよ。向こうもたぶん気を使っているのよ」
「……何の話だ?」
「うん、間違いないわね。ひそやかな、しかし隠しきれない哀しみがある」
シルニーズはダークスレイヤーの耳のあたりにそのしなやかで輝くような手を伸ばし、触れる。
「これは?」
豊かで哀切の漂う何らかの弦楽器の音色と、押し殺したすすり泣きのような声が聞こえてきた。
「女神たちの住まう城で、泣いている者がいるのか」
「泣きながら素晴らしい楽曲を奏でているわね。燃えるような赤い秋の森が見える。で……」
シルニーズは楽しそうにダークスレイヤーに向き直った。
「この城で女神の涙に対処すべき人は、たぶん一人しかいないかなと」
ダークスレイヤーは立ち上がった。
「わかった。話を聞いてこよう。この前のようにいきなり神剣を刺されようがどうという事はない。これほどに美しい曲をただで聞かせてもらうのも気が引けるしな」
「落ち着いたら顔を出すわ。どんな方のどんな事情か知りたいしね」
女神シルニーズは消え、いつもの簡素な丸木の長椅子が残る。ダークスレイヤーは魔剣ネザーメアを一瞬顕現させては眺めて消し、リュデラーン城の大城門に向かった。
──かつてリョムロクルヤという禍々しき黄金の世界樹あり。この大樹と古き民諸共、猛き巨人の血を引く我らが火の斧フェルブランドルにより焼き、討ち倒さん。しかし世界樹の恨みは強く、飛び散った赤い樹液は深まる秋に今でも木々を赤く染め続ける。それこそが我らの『赤い秋』なり。
──ハーシュダインの伝承より。
冷たい霧が視界を遮る中、ダークスレイヤーはリュデラーン城の大城門と思しき地点まで歩いたが、霧が深くなるばかりで何も見えず、マントの裾が濡れて水が滴り始めていた。黒い炎を呼び出してこの霧を払う事も考えたが、いずこかのまだ見ぬ女神の領域の可能性が高く、それはしなかった。
そんな霧の中に哀切漂う何らかの弦楽器の音が響き続けている。長い長い冬の中、束の間に光がさすような、それでも息づいている人や神々の営み。絶望よりわずかに希望が勝るような環境で語られていく強い杣人の物語。それは人と神々が絶望の冬に力強く抗う物語でもあり、やがて冬と木々は次第に切り開かれ、人と神々の営みは勇壮になっていく。しかし、それは次第に哀しみと過ちを予感させる旋律に変わっていった。
ダークスレイヤーはこの旋律に乗った物語の行方に不穏なものを感じた。その時、旋律は突如として、霧が晴れるとともに光さす明るい調子となり、周囲は真っ赤に紅葉した豊かな森の様子に変わった。何者かが、奏者から急に己を語る立場になったかのような変調。
霧は瞬時に、血のように赤い紅葉に満ちた秋の森へと変わり、同時に、ダークスレイヤーより背が高く大柄な、おそらくは女神であろう存在が大きな弦楽器と共に現れた。周囲の血のような紅葉と同じ色の髪をし、その目は冬の泉のように冷たく澄んでいる。楽器を奏でる手が止まると、すすり泣くような声がその女の口から洩れており、その目もわずかに涙で潤んでいるようだった。

大きな女は赤い落ち葉の上に膝をそろえて座り、平伏する。
「顔を上げてくれ。霧と旋律、そして泣くような声に導かれてここに来た。知らずに君の領域に足を踏み入れていた非礼は詫びよう」
顔を上げた女の目は涙が溢れていた。
「この涙の意味を語るのに長い時を要し、また私は適切な言葉でそれを伝えるすべがありません。ただ、あなたを呼び寄せた形になったのは私の行いによるものです。何の非礼もありません。こうして出会えたこともまた涙の理由なのです」
並々ならぬ覚悟が伝わってくるものの、見当の全くつかないダークスレイヤーは静かに腕を組んだ。
「私は、かの十六の超国家の一つ、ハーシュダインの杣人にして戦神の一族の娘ラーウヒルド。多くの方々には『赤い秋のラーウヒルド』と呼ばれております。あなた様にはこの意味がお判りでしょう」
「ハーシュダインと言ったか」
「はい。『戦斧帝』オーダル・ハーシュダインの唯一の娘です」
無限世界の中枢『界央の地』の十六方位を守護する超国家群。その中でも『北』の守護を担当し、とりわけ凶暴かつ強大な超国家ハーシュダイン。氷の女王サーリャの民族を殲滅せんとし、また多くの他世界に侵攻しては版図を広げ続ける体の大きな杣人にして戦士の民であり、ダークスレイヤーにとってはいずれ対峙必至となるはずだった大国と思われていた。その神々の娘が目の前にいる。しかし、ダークスレイヤーは剣を取らなかった。
「話せ」
「ありがとうございます」
かすんだ薄い青のわずかに入った白い衣装のラーウヒルドは、人より大きなその胸元に手を当てて自分を落ち着かせる仕草をすると、やがて決意のこもった目でダークスレイヤーを見つめ返し、息をのむ。
「多くの伝聞による恐ろしい戦いぶりからは想像もつかない、微塵も戦いに荒れないお心のありよう……。私もまた戦神の一族の娘です。その意味するところは私たちの未来をも示しています。あらためて確信しました。増長した我が国はいずれあなたに滅ぼされ、根絶やしにされるでしょう。しかし、我が国の、我が民のすべてが滅ぶべきではなく、現状に異を唱えて父や兄たちに抗う良心の持ち主たちもわずかですがいます。そしておそらくは、虐げてしまった人々への贖罪を続ける者たちも。どうか、我が国滅亡の際は一握りの者たちだけでも生かしていただけないかと思い、この城に恥を晒しにまいりました」
ラーウヒルドは改めて平伏した。
「女神に平伏される理由などない。彼らとの戦いは避けられないだろうが、戦士としておれの前に立たぬ者を殺す事はない。用件はそれか」
ダークスレイヤーはくるりと踵を返して立ち去ろうとした。しかし、その背中にラーウヒルドの声がかかる。
「私への処断が済んでおりません!」
「処断?」
足を止めてダークスレイヤーが振り向く。座っていても大きなラーウヒルドの姿はなお美しく、白いドレスと所々が透けるそれは紅葉に落ちた新雪のようで、その衣装の一部や髪飾りの花は薄青く、繊細な女らしさを感じさせるその組み合わせは花嫁衣裳のようにも見えていた。
「この衣装は我が一族の女が嫁ぐ時、あるいは首を刎ねられる時のもの。私はあなたにこの身を捧げるためにここに来たのです。無数の文明を滅ぼした我が一族と民の罪は計り知れず、既にあなたの手を煩わせ、滅ぶまでそれは続くでしょう。かと言って私も女神の端くれ。私の身一つで動いた結果は愚かしい破滅しかないことを知っておりました。長い苦悩とわずかばかりの反抗の中であなたを知り、自由なる存在であるあなたに身を捧げて信頼を得る事で、やっと私の行いも何かを変えられると気付いたのです」
「おれはおれの戦いをするのみだ」
冷たいと言っても良い口調が空気を引き締める。しかし、ラーウヒルドはその言葉を良く呑み込んだうえで静かに首を振ると、胸に手を置いては震える声で続けた。
「何の必要もないとお思いなら、せめてこの首を刎ねてください。この罪には報いが必要です。あなたに首を刎ねられたとして、落ちた首に泥が付く(※ハーシュダイン独特の言い回し。何かに大きく失敗しても最低限の名誉は守られるという意味)ようなことは避けられるでしょうから。それでも贖罪としてはひとひらの雪にも及ばないでしょう」
「女の首を刎ねるのは戦士の仕事ではないし、その首にも用は無い」
「無礼を承知で申し上げております。これは私の罪の話なのです」
話はそこで止まり、ラーウヒルドは澄んだ目でダークスレイヤーを見つめ続けた。
「たとえ惨たらしい死に方をしたとして、苦痛は一瞬だ。しかし生き続けて自分の一族の、そして超大国の敗北や没落を見届け、嘲笑され恨まれても贖罪を続ける生は、死より遥かに苛烈だろう。その覚悟があるというのか」
「はい。もしも話を聞いてくださるのなら、私の死をご覧になって下さい。私があなたに身を捧げるしかない理由があります」
ダークスレイヤーはラーウヒルドに静かに歩み寄った。
「手を出せ」
「ここに」
ラーウヒルドは白い長手袋を取り、その長い腕を伸ばした。その手を、それよりは小さいダークスレイヤーの手が掴む。
「少し痛むかもしれん」
ラーウヒルドは静かに頷き、ダークスレイヤーと握手を交わした部分に黒い火が灯る。
「うっ!」
熱にラーウヒルドは一瞬目を閉じ、やがて恐る恐る目を開けた。ダークスレイヤーの目は熾火のように赤く燃えている。
ダークスレイヤーの心に、ラーウヒルドの過去と未来が流れ込んできた。おそらくはラーウヒルドの父、オーダル・ハーシュダインだろうか? 長い髭と巨大な体躯をした威厳ある男の蔑むような視線と声が強く響く。
──あの赤い髪と我らより大きな身体。巨人の血なのか、忌々しい世界樹リョムロクルヤの呪いなのか。
──なぜそなたは我らの偉業を理解せん! 我らは戦い続け、研鑽を欠かさぬ。怠惰な他の民など何の価値も示さぬではないか!
──女も芸事も、我らハーシュダインには必要ない! いずこかで野垂れ死ぬがよい!
幼い頃は忌み子かと思われて避けられ、その優しさは理解されず、やがて放逐された過去。そして、未来は恐るべきものだった。それは、彼女自身が贖罪として地獄に投げ込まれる光景だった。
──ハーシュダインの一族はわしとお前を除いてみなあの男に殺されたのだ。よって贖罪をする者がお前しかいない。お前は、我が一族が生み出した地獄を清めて贖罪するのだ!
何者かから突き落とされるラーウヒルド。底の無いような長い落下の後で、気付いたラーウヒルドを取り囲むのは、様々な惨たらしい姿をした生ける死体だった。しかし、それらはすべて立ちあがり、恨みと欲望のこもった目でラーウヒルドを見ている。
頭を割られた者、何本もの槍や斧を打ち込まれた者、焼かれた者、首を刎ねられた者——。それらは皆、戦士のたくましい身体を持ちながらも致命傷を負い、なお死にきれず堕落した神々だった。
──こ奴らはハーシュダインに死するまで抵抗し、それでなお愛するものを奪われ殺された戦士たちだ。この者たちの気が済むまで、お前はこの者たちを慰めるのだ!
その声は先ほどのオーダル・ハーシュダインのものだった。
──父上、あなたは自分が何をしているかわかっているのですか?
ラーウヒルドの叫びが響く。
──忌み子が言いおるわ。不吉なお前など娘と思った事はない。しかし、その存在意義は理解した。我ら一族の業を消すためにお前はいる。
何かが閉じるような音とともに、ラーウヒルドと父の間は閉ざされた。絶望の静寂の中でラーウヒルドはあたりを見回す。
──女だ、忌々しいハーシュダインの一族の。
──女! ……女だ! 清らかなる女神だ!
死してなお残る底知れぬ暗い欲望がはじけ、死にきれぬ神々は獣のようにラーウヒルドに群がり始めた。
ダークスレイヤーの手が離れ、ラーウヒルドは大きな目に涙をためて震えている。
「ご覧になられましたか? 私のおぞましい未来を。しかし、我が一族のこれまでの傲慢なる蹂躙は、私が何度あのような目に遭っても許されるものではないでしょう」
「ハーシュダインの秘密と、君の未来を見た。つまるところ彼らはその行いで新たな地獄をどこかに生み出してしまっているのか。そして、放逐した君を捕らえ、そこに放り込み、獣と化した者共に永遠に等しく慰みものにさせると」
「はい。この未来は今のところ避けようがありません。それしかないのであれば運命に身をゆだね、獣と化してしまった者たちにこの身を捧げて贖罪を続ける事でしょう」
ラーウヒルドは懇願も期待も乗せぬように、ただ真摯にこの男に全てを伝える事が叶ったと思った。ここでダークスレイヤーが踵を返せば、それまで。あとは真摯に未来のおぞましい贖罪に向き合うのみ、と覚悟が整いつつあった。……つもりだった。
ダークスレイヤーは眉一つ動かさずにラーウヒルドに背を向けた。自分でも信じ難いことにラーウヒルドの心は激しく揺れ、去らんとする男の背中に助けを請いたい気持ちが沸き上がり、それを抑え込む。それら全てが涙として溢れ、赤い落ち葉に滴り落ちてはたはたと音を立てた。
その音を聞いてか、ダークスレイヤーの足が止まる。
「運命、罪、贖罪、全て実に下らない茶番だ」
ダークスレイヤーの手に黒い炎が舞い上がり、様々な燃える文字が浮かんでは消える黒い魔剣が現われた。
「それらは全て斬り、焼き尽くす」
振り向きざま、ダークスレイヤーの剣閃は明らかにラーウヒルドの胸のあたりを通過した。その迫力がラーウヒルドの全身を震えさせる。
「……斬ったのですか? 私に、解放としての死を?」
ラーウヒルドは自分の胸のあたりを見た。初雪のようなドレスは切れても焼けてもおらず、血も滲んでいなければ、痛みもない。ただ、剣が通過したあたりに清々しい熱のようなものを感じていた。
「何をなさったのですか?」
見えていた未来が黒い炎に焼かれるように消えていき、未来が澄んだ闇となった。
「女を殺す剣などおれには無い。下らぬ茶番の繰り糸を斬ったまで。ハーシュダインの件は承知した。全てが滅ぶべきではないのもまた道理だ。過酷な道は続くだろうが、時が来たら君の一族の業と向き合いつつ、良き人々は導けばよい。君のおぞましい未来の役割は、何らかの形でよりふさわしい者たちが請け負う事になるはずだ」
「何という事を……罪深き敵の一族の私を自由にするのですか」
「それはおれのあずかり知らぬことだ。足りぬなら、おれをここに引き寄せたあの楽器の音色への返礼と解釈したらいい」
「心と願いを込めて弾いてはおりましたが、ここまでの事をしていただくほどとは、とても」
「値のつけられないものの価値を受け取り手がどう決めるかは自由なものだ。杣人にして戦士なら、細かいことは気にするな」
「そうは申されましても……いえ、仰せの通りですね」
戦士にこれ以上語らせることは不躾だとラーウヒルドは気づいた。
「なら、あとはそう哀し気な顔はするな。花嫁衣装もその楽器も勿体ないだろう」
ダークスレイヤーはそれだけ言うと、魔剣ネザーメアを消して静かに立ち去った。これ以上その背中に声をかける事がはばかられたラーウヒルドは、伸ばしかけた自分の手を掴む。
「これでは私が頂き過ぎだと思うのですが……」
「今のままではね」
ラーウヒルドの独り言に応えるものが現われた。繊細に輝く長い銀の髪に、足の見えるすらりとした黒いドレスと、身に着けた様々な宝飾品。親し気な目はそれでも、人をはるかに超えた聡い光が躍っている。
「あなたは、この城に集まった女神様の一柱ですね? 私はハーシュダインのラーウヒルドと申します。この城の女神様たちは、きっと我が一族と我が国の行いを好ましくは思わない事でしょう」
「名乗られたらこちらも名乗らないわけにはいかないわね。私はとうに滅んだラーンファースのシルニーズ。かつては快楽と遊興を司っており、『喜びのシルニーズ』とも呼ばれていたっけ。一応、この城で最初に彼と話した者になってるわ」
「あの方と、最初に? 大変な勇気をお持ちの方ですね。あの方の風評はとても恐ろしいものだったはず」
「風評は事実と無関係だもの。自分で確かめなくてはなにも楽しめないわ」
「敬服いたします」
「そんな畏まらないで。同じく平等な立場のはず。あなたも由緒あるハーシュダインの神々の姫君でしょうし」
「由緒は、あるのでしょうか? 所詮は巨人の血を引く野蛮な杣人の思い上がった大国と嫌われている気がしますが」
この答えにシルニーズはおかしそうに笑った。
「あなた、自分に対して少し厳しい所があるのね」
「厳しいと申しますか、その……」
ラーウヒルドは巨人の血脈によって人よりやや大きな自分と、『人なる神々』の大きさに準じたシルニーズのすらりとして整った容姿を見比べた。
「ふーん……」
女神シルニーズは何かに気付いたのか、より上機嫌そうに微笑んでいる。対して、ラーウヒルドは何かを見透かされた事に気付いてどきりとした。
「ラーウヒルド、良かったらちょっと立ち姿を見せてもらえるかしら?」
「ああ、見透かされてしまいましたね……」
ゆっくりと立ち上がったラーウヒルドはシルニーズよりだいぶ背が高く、上背がシルニーズの倍近かった。
「身を捧げる、という覚悟でそんな綺麗な花嫁衣裳まで着る覚悟を見せたのに、自分が彼よりだいぶ大きいことを気にしているのね」
「仰る通りです……この蒼い城は理知の光に照らされた神域。ここでの私の姿はどうしても巨人の血脈により、この大きさが限度です」
「彼の背丈はこれくらい、うーん」
シルニーズは手のひらでダークスレイヤーの背丈を示した。それはラーウヒルドの胸の下あたりの高さとなる。
「大丈夫じゃない? 彼はあなたにそんな事を求めたりはしないでしょうけど、でも、そんな事が出来ない、という事はなさそうだわ」
「異なる時代であり、多くの場合は敵でもあった巨人の血を良く思わない神々も少なくないですし、何よりこの大きい体では女神として見られないのではないかと」
ラーウヒルドは恥ずかしそうに顔を伏せ、大きな体が縮んで見える程だった。その可愛らしさに好ましいものを見出したシルニーズはにんまりと微笑む。
「よし、こうしましょう。あなたは今夜、あの方の休む馬小屋を訪れたらいいわ。『貰い過ぎ』とも言っていたし、覚悟や誠意を見せるのは大事だもの。ついでに、自分の価値についても率直に聞いてみたらいいわ」
「そっ……!」
顔を上げたラーウヒルドは赤面して絶句している。
「そんな事を? ……いえ、あの方が私の運命を斬らなければ、私はおぞましい慰みものにされるのみでした。この身しか捧げる物が無かったうえに、既にあの方の元に行くのがすべき事になりつつあります。恥を忍んで行きましょう。わ、私も勇猛なるハーシュダインの一族、巨人の杣人の末裔にして戦士です。救ってくださった方の寝所に行くくらい……」
そこまで言うと、ラーウヒルドは真っ赤になって座り込んでしまった。
「あなた最高ねぇ。是非お友達になりたいわ!」
「私などでよろしければ……こちらこそです」
大きな体とその血脈に似つかわしくないラーウヒルドの恥ずかし気な小声は、シルニーズをさらに楽しい気分にさせていた。
──ハーシュダインに三つの至宝有り。悪しきリョムロクルヤの世界樹を切り倒した巨人の斧フェルブランドル。リョムロクルヤを削りだした大いなる竪琴ヴェフティマ。そして薄青き雪割草フリムブラである。
──戦斧帝オーダル・ハーシュダイン著『伐神記』より。
おそらくは深夜、リュデラーン城の馬小屋。
目を閉じて休息していたダークスレイヤーの耳に、昼間より遥かに情感豊かなラーウヒルドの竪琴の音が響いてきた。その音色は彼らの世界の成り立ちを雄大な曲にしたものだった。
世界を暗くする禍々しい黄金の大樹と、その濁った闇の中に赤く燃える巨人の斧の炎。それは黄金の世界樹に何度も打ち込まれ、そのたびに世界樹の呪詛の言葉が天に響く。しかしやがて、その声はか細くなり、世界樹は倒れて大津波を起こすと、現れた肥沃な大地で人より大きな神々が自分たちの世界を営み始めた。
長く厳しい冬に暖と光を取れる木を切り倒して凌ぎ、白い動物と冷たい魚を捕る神々。青白い花が雪を割れば短い春と夏が訪れ、婚姻を結び、世界樹が散らした血の呪詛の名残とされる赤い秋に、また長い冬の訪れを覚悟して備える。その悠久の営みがありありと浮かび、思い出をもより美しく語られるような調べが流れていく。しかし、その調べの中に奇妙な一抹の禍々しさもあり、それが曲をさらに玄妙かつわずかに妖しい美しさにしていた。
やがてその曲が終わり、ダークスレイヤーは目を開けた。外の夜霧の中に、輝ける大きな竪琴と共に立つラーウヒルドをみとめる。ラーウヒルドは丁寧に一礼した。
「お休みのところを申しわけありません。でも、とても良いお顔で我がハーシュダインの調べを聞いてくださいましたね。ここから先の曲はしかし、あまり弾きたくはないのです。父や弟たちは勇壮な良い調べと好みましたが、そこに多くの敗れて踏みにじられた方々がおりますから」
わずかの沈黙が漂う。
「一つ聞きたい。その音色の中にごくわずかな妖しい禍々しさがあり、黄金の輝きを深めるような効果を君の曲に与えている。それは君の思いや技量によるものとは少し違う気がする」
ラーウヒルドの目が驚きで大きくなった。
「戦いも楽曲も、極めれば同じようなもの。やはり、あなたほどの戦士になればわかるものなのですね。あなたが聞き取った妖しい気配は、この大いなる竪琴ヴェフティマにわずかに残る、邪悪な世界樹の妖しい魂の名残です。それがこの弦の音色を妖しく美しく響かせるのです。この竪琴はあの禍々しい世界樹リョムロクルヤの黄金の木材から削り出されておりますから」
「君の世界の世界樹はまともに育たなかったのか。しかし、それを楽器の材料にする発想は嫌いではない。良い音色だった」
「仰る通りです。このヴェフティマの奏者ももはや私だけですが、お褒め頂くのはとても嬉しいです。お望みであればいつでも奏でますとも。そして……」
ラーウヒルドはしなやかな手でヴェフティマを撫でるように弦を鳴らし、あたりは血の滴るように赤い、しかし輝くように美しく紅葉した秋の森となった。

「我が領域『ハーシュダインの赤い秋』にお迎えしました。我が運命の繰り糸を断ち、おぞましい末路を焼き捨ててくださった方に、せめてこの身を奏でていただけたら、与えて頂いた自由にわずかばかり血の通うお返しが出来るかと思いまして。その……いささか体の大きい、巨人の血を引くこの身がお嫌でなければですが」
深々とお辞儀をするラーウヒルドが顔を上げると、意外な事にダークスレイヤーはわずかに優しい微笑みを見せた。その様子に、ラーウヒルドの心の奥深くに何かじんわりとした温かなものが宿った。
「この心は既に人間性を失いつつあるが、それでもその大きく整った姿は美しく、好ましいと言える。それはおれに束の間、人の心を取り戻させる。今はそれだけでも気遣いに感謝するし、それ以上の事はしなくていい。しかし現世の繰り糸を斬ったままでは確かに波間さすらう船のようになりかねない、か。ならば……」
大きく整った姿で美しく、好ましいと言われた事が、ラーウヒルドの心に立ち込めていた暗いものを一瞬で消し去ってしまった。今ならもっと良い曲を奏でられるかもしれない、そんな思いが強くなる。
「その装いは花嫁衣装と言ったな?」
「はい、或いは未婚の女戦士が首を刎ねられる時にも着たりします」
「その衣装にある薄青い色と、髪に飾っている同じ色の可憐な花にも意味が?」
「これは私たちハーシュダインの地に春を告げる雪割草、薄青いフリムブラの花とその色です。長い冬の束の間の薄青い空、または春の訪れを告げるもので、長い苦難の中に希望を忘れず添い遂げる、という意味があります。あるいは、贖罪と許しを」
ダークスレイヤーは静かに頷くと、ラーウヒルドに歩み寄る。
「女の誘いや覚悟に応えないという意味ではない。今はその時ではないが、約束は交わそう」
言いながら、ラーウヒルドの髪に飾られていたフリムブラの花飾りを抜き取った。
「これはいかなる意味でしょうか?」
「今後、おれとの関わりを問われたら、こう答えればいい。『斬られ、花を奪われた』とな」
そのままの意味が、そのままは伝わらない。それが何を意味するのかラーウヒルドは瞬時に理解した。それが自分の立場を多くの場合は保護することも。
「何という男ぶりの良いことを……」
絶句するラーウヒルド。
「気にするな。あとは素晴らしい奏者の音色を楽しませてもらおうか」
「はい、是非とも!」
迷いは消え、ラーウヒルドは最高の曲を奏でるべく、ヴェフティマにそのしなやかな腕を延ばす。ダークスレイヤーは目を閉じてその玄妙かつ艶やかな調べに耳を傾け、その静かな戦士の顔はラーウヒルドの音色をさらに高めた。そして、この夜に響いた赤い秋の調べは、まだ姿を見せぬ多くの女神たちの心にも響いていた。
──大いなる黄金樹の竪琴ヴェフティマは、早い時期に世界樹リョムロクルヤを見限った古き民たちがハーシュダインの民に贈ったものだとされている。しかし、その音色には隠された意図または呪詛が宿るという根強い噂もある。
──ハーシュダインの伝承より。
リュデラーン城の最上層、城主たる女神ハルシャーの座す『星の海の間』。
輝ける静かな海に目を閉じて座していたハルシャーは、白金の輝きを帯びた長い枯れ木の杖を掲げ、その先に燃える青白い灯火の光を今夜も多くの世界に届けていた。
ふと、何者かの気配を感じ取り、その目を開ける。そこに立つのは猫の耳を消して清冽な立ち姿の女神シルニーズだった。

「あらシルニーズ様。今宵は素晴らしい竪琴の音色が響き、朽ちぬ白金樹の杖の光もいつもより楽し気に踊っているようですよ。あの黒い方、立ち塞がる宿命の超大国の姫君に見事な対応をなさったご様子ですね」
「不意打ちで命を奪わんとしたマリーシア様にも、尽きぬ蛮行を働く敵国の姫たるラーウヒルド様へも、そして私にも、なかなかに見事な対応をしてるわね」
大変に珍しいことに、女神ハルシャーはその位の高さではまず見られない笑顔を見せた。
「今のところは、私の思った通りのお方。お会いできる日を楽しみにしております。ただ……シルニーズ様もおふざけはほどほどになさってくださいね」
ハルシャーはシルニーズもぐらりと取り込まれそうなほどに柔らかな笑顔を見せた。
「参ったなぁ。ハルシャー様は何でもお見通しですよね? でも、心に留め置くわ」
蒼い城、リュデラーン城の最上層では、城主である女神ハルシャーと、ダークスレイヤーの身近にいる女神シルニーズがひそやかに言葉を交わしていた。
──無限世界の多くの世界をその版図とし、多民族からなる数千億単位の艦隊を擁した超国家ハーシュダイン。しかし、その規模が大きくなるにつれて戦斧帝オーダル・ハーシュダインの心は次第に平衡を失っていったとされている。
──大賢者ウルボルスト著『十六の超国家』より。

初稿2025.11.15


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