赤いドレスとガラスの靴と
※この物語は『詩人に手向ける夜の詩(うた)』の続きとなります。
神聖エンデール帝国、帝都ドゥルザリア西部、イルミスオラ大慰霊公苑。
深夜に詩人セデラックの墓参りを終えたルインは、赤いドレスを着た夜魔鳥リーニクスの姫ティアーリアを後ろに乗せて霊体の馬を駆り、次の墓へと移動していた。ティアーリアのしなやかな白い指が指し示す方向へと疾風のように夜の草原を駆け、なだらかな丘に登ると、眼下には石組みの大きな四角い墓地が彼方まで点在する草原が広がっている。
「あれらの石組みの墓地は全てエンデールの貴族のものです。私の旧友は……あの、角が取れた古い陵墓がそれです」
言いながらティアーリアは身を乗り出し、ルインの背中に寄りかかる姿勢で左腕を絡め、右手で彼方を指さす。しかし、その姿勢はドレス越しに決して控えめではない胸が当たり、ルインは気遣った。
「何と言うか、素晴らしい感触だが申し訳ないので少し気を付けて欲しい」
「あら? 私の胸の事ですか?」
「そうだな……」
ティアーリアは小鳥のような可愛らしい声でひとしきり笑った。
「ふふふ……本当に、ルイン様と来たら真面目ですね! 嫌でなければ気にしないでください。私は私で、屈強な武人の背中の感触を楽しんでいます。それなら等価でしょう? ラヴナやチェルシーが少し説明したと思いますが、私たちの孤独は、人間の男性の欲望よりもはるかに強く業の深いものです。なのに、それが満たされることはほぼ無く、氷の中に閉じ込めた火のようになっていますからね。凍え死にそうになり、そしてとても渇いているのです」
「……おれで、それが癒されると?」
「ええ、とても。今夜も、あなたを掴んで足を揃えて馬に揺られて、心が小娘のように震えていますよ? 私たちは力も魅力も強すぎ、こうして女の部分を楽しませてくれる男の人はなかなかいないのですから。このような話が出来る事がとても嬉しいのです」
「……そういうものかね?」
「そういうものですよ」
ルインは霊体馬を緩く歩ませ始めた。
「そして、だからと言って私たちに快楽を求めようとはしない。だから、私たちは淑女や可愛らしい姿を取っていられるのです。自分について悩まなくて良くなりますからね。女という花に必要なのは、必ずしも摘む者ではなく愛ある園丁のような方だとは思いませんか?」
しばらく、穏やかな夜風で波打つ草原の音だけになった。霊体馬は音をたてずに進み続けている。ティアーリアの言葉は何か確信めいたものがあり、ルインは慎重に言葉を選んだ。
「……そのような心掛けで居たいものだ。皆の何かが落ち着くまではな」
言いながら星々を眺めるルインの言葉に、大抵の男には見いだせない誇りと優しさを感じたティアーリアの心は強く揺さぶられたが、それを表に出さずに答えた。
「ええ。だから私の肌が振れる程度の事は気にしないでください。今はまだ何も贈れそうになくて心苦しいですから。ふふふ」
「そんな事はない。今夜も楽しいものだ」
霊体馬は再び風のように走り、ほどなくして石組みの古い陵墓にたどり着いた。丸みを帯びた石組みの階段構造を持つ四角錘で、各段に様々な墓石が建っている。
「これは、エンデールの皇族とも繋がりのある大貴族、アルグバンド家の陵墓です。詩人セデラックがいた頃のアルグバンド家の娘に、ミランセーヌという美しい女がいました。現在の神聖エンデール帝国の式典や儀礼などについてまとめた本を多く出した、礼法の大家です」
言いながら、ティアーリアは夜の闇のような翼を広げてふんわりと馬から降りると、腰の小さな銀色の袋から、キラキラと光るガラス製の踵の高い靴を取り出した。
「それは?」
「これは遠い昔、そのミランセーヌと礼法や舞踏で勝負した事があり、最後に優劣を決した時に私が履いていた、ガラスの靴ですよ。とても懐かしい品なのです」
ルインはティアーリアの次の動作を察してか霊体馬から降りた。その様子を見て、ティアーリアも微笑む。
「時々、私のような女との付き合いがあったような予測をしますね。……肩をお借りします」
ティアーリアはルインの肩に掴まり、踵の高いガラスの靴に履き替える。
「礼法の動作を極めた私は、本来ならそのまま靴を履き替えられます。でも、せっかく肩を貸してくださる方が長い時を超えて現れたのだもの。甘えない手はありませんよね? ミランセーヌったら、年老いて亡くなる時に、私に良い男が現れる事を願って世を去ったのですよ? だから、見せつけてやりたいところですね。ふふふ!」
懐かしい目をしてティアーリアが笑う。
「とても良い友だったようだな」
「ええ。いい女で良い友でした。喧嘩も沢山出来ましたしね。私の人間への信頼はあの子が作り上げたようなものです。そして、この踵の高い靴は女の足を美しく見せますが、これは私がミランセーヌとの礼法勝負で編み出した物なのですよ?」
「そうだったのか。……ティアーリア、この墓も馬で登っても? それと、ミランセーヌの墓はどれだ?」
「エンデールはこの様式のお墓でも、馬で乗り付けていけない、という決まりはなかったと思います。ミランセーヌの墓は頂上の一段下のあの区画ですよ?」
「それならティアーリア、馬であそこまで行こう。乗って、しっかり掴まってくれ」
「え? ……はい!」
ティアーリアはルインの意図を読んで嬉し気に馬に乗り、ルインの腰に手をしっかりとまわした。
「行くぞ?」
ルインは掛け声をかけて霊体馬の手綱を操り、陵墓の階段を巧みな馬術で登っていく。馬術にも通じているティアーリアは、それが模範的な階段駆けだとすぐに気づき、ルインの手綱さばきの緩急に合わせた。
見事な馬術で霊体馬はミランセーヌの墓の前にたどり着く。
「こんな趣向も悪くないだろう?」
「素晴らしい馬術ですね。驚いたわ! でも、とても楽しいです。ミランセーヌもきっと驚いている事でしょう」
鏡のように磨かれた白い墓石には、生前の功績をたたえた様々な文言が刻まれている。
──エンデールの礼法と文化の母たる淑女ミランセーヌ、ここに眠る。
「ミランセーヌ、よく眠れていて? 今の私は少し救われているのよ? だからあなたもたまには私の事を気にせずに眠りなさいな」
祈りをささげたティアーリアがつぶやくと、白い墓石に重なるように、一瞬だけエンデール様式の縄目模様を取り入れたドレス姿の気高い女の姿が現れ、そして消えた。その表情は穏やかに微笑んでいたようにも見える。
「彼女がミランセーヌか」
「ええ。私の数少ない友の一人です。……さて、私にもたまにはよい男が現れるのだと見せつけてミランセーヌを安心させたことだし、あとは小さな儀式をして帰りましょうか」
「儀式?」
「はい、こちらに」
ティアーリアは一段下の区画に降りていき、ルインもその後を追う。石組みの屋根がかかったその区画は、天気の影響を防ぐ魔導の仕掛けが施してあり、そこには無数の踵の高い靴が山と積まれていた。
「これは?」
「ここに収められている靴は、踵の高い靴ばかりなのです。礼法を身につけんとする貴族の娘たちが、ミランセーヌと私の礼法勝負にあやかって、ここに納めているのですよ。で、これらのうち……」
ティアーリアは片眼鏡を取り出して靴の山を鑑定するように眺め、幾つかの靴を取り出して通路に置いていく。
「思いの強いものを選別し、これを魔の都の『驚愕の市場』に出します。奉納した者はそれで恩恵を得る事になるでしょうね」
「そんな事をしていたのか」
「で、残った靴に関しては……あなたたち、そろそろ降りて来なさい!」
ティアーリアは空に呼び掛けた。少し小柄な有翼の人影が二人、ふわりと降りてくる。しかし、ルインはその二人の衣装に気付き、慌てて後ろを向いた。ティアーリアの怒声が響く。
「あんたたち、なんて格好をしているの? 今夜はルイン様も一緒かもしれないって言ったわよね?」
ルインが一瞬見たものは間違いではなかったらしい。空から二人の有翼の少女が降りてきたが、どちらもほぼ下着に薄布を纏っていただけの姿だと見えていた。これはティアーリアには予想外だったらしく、呆れたような怒声が続いている。
「しかもノイナがいないし! またどこかに行っちゃったのね? ほら、ショールを貸してあげるからこれくらい着て、挨拶なさい。……ルイン様、こちらを見ても大丈夫ですよ?」
ルインがゆっくりと振り向くと、ティアーリアのそばに少し小柄な有翼の少女が二人並んでおり、一人は赤みがかった緩い巻きのある髪をしており、もう一人は白銀の長い髪に黒いカチューシャを付けている。ルインの記憶に間違いが無ければ、赤みがかった髪の少女は赤いレースの下着と薄衣だけの姿で、白銀の長髪の少女は黒いレースの下着と薄衣だけだった。
「こんばんは、眠り人ルイン様。さっきの私たちの姿はノイナという子の悪戯と、ちょっとしたあいさつ代わりです。私はラクチェといいます」
赤い巻き毛の少女はそう言うと、舌をちろりと出して片目をつぶる。
「私はミクリスです。眠り人ルイン様、ティアーリア様を口説き落としたら私たちとも遊べますから、その日を楽しみにしていますね。私たちはいつも冷たい空を飛んでいるものだから」
あまり抑揚のない口調でとんでもない事を言い、白銀の髪をさらりとかき上げて夜風に流すミクリス。
「ああもう……本当にごめんなさい。私たちは『寡婦』の宿命があるから、少し奔放な所があるのです」
珍しく、ティアーリアがいたたまれなさそうにしている。
「気にしない。みんなとても声が可愛らしくて、何だか楽しくなるな」
「でしょう? ルイン様、私たちの暮らす『鳥の宮殿』は、大変な財宝だらけなの。でもいつも王様はいないわ。なのにティアーリア様は自分の魅力だけでルイン様に接しようとしているの。その気高さは理解してあげてくださいね?」
「ラクチェ、そんな事を言わなくていい人なのよ? ルイン様は」
「わかってるわ。でも、ティアーリア様の気持ちで、自分からは伝えづらい事もあると思ったの」
「まぁねぇ。じゃああなたたち、あとはいつものように頼むわね」
ティアーリアは腰に両手を当て、慣れた様子で眷族の少女たちに命じた。
「はーい!」
ラクチェは楽しそうに、ミクリスは特に返事もなく、二人とも大きな袋を出すと、積み上げられた靴を次々とその中に放り込んでいく。
「これらの靴は私たちの信徒に配るのよ。特に貧しい女の子たちにね。ただ、ちょっと最近の風潮は困ったものなのよねぇ……」
ティアーリアの言葉に合わせるように、ミクリスが靴を放り投げる。それは異様に踵も靴底も高く、何かの冗談のように悪趣味な靴だった。
「最近の流行らしいけど、全く美しくないわ。ただのゴミね。これも!」
何足か続けて、同じような靴が通路に放り投げられた。
「この靴、礼法どころか美しさも何も感じられないようだが……」
ルインは困惑してその靴を拾い上げた。歩くのさえ大変そうなその靴は悪趣味な誇張が随所に見られる意匠だった。
「かつての私たちの礼法の勝負から、踵の高い、女の足を美しく魅せる靴が生まれました。しかし、いつからかエンデールの進歩派を名乗る貴族たちは、冗談のように踵も底も高い靴を是として、年老いた鶴のように不格好な歩き方を女たちにさせています。否定しようにも流行だとかで、全く理解が出来ませんね。ルイン様はどう思われますか?」
「これは……文化や流行の歴史上は価値があるのかもしれないが、美しいとはあまり思えないな。武器もそうだが、洗練されたものは無駄も誇張も無く美しいものだ」
「ふふ。そう言うと思っていましたよ。魔の国の女たちはこんなものは履きませんもの。私たちは美の理解者ですからね。そしてきっと……」
ティアーリアはミランセーヌの墓に目をやった。
「あの子も同じ考えだと思います。……そうよね? ミランセーヌ」
一瞬だけ、また淑女の幻影が現れては消えた。
「やっぱりミランセーヌもそう思っているようですね。ではルイン様、帰りましょうか」
「この仕事を手伝わなくても良いのか?」
しかし、ルインの考えをミクリスが拒否した。
「それならティアーリア様に付き合ってください。私たちにはそれが一番うれしいです」
「ねー!」
ラクチェも同意する。
「その通りですよ? ルイン様」
「……なら、そうさせてもらうか」
ルインは霊体馬にティアーリアを乗せ、陵墓の階段を下ると草原を走り始めた。
「ところでルイン様、私とミランセーヌが、頭に何冊もの本を乗せて競った礼法の勝負、エンデールではミランセーヌが勝ち、魔の国では私が勝ったとされているのですが、実際のところはどちらが勝ったと思いますか?」
「そうだな? ティアーリアじゃないのか? 人間はしばしば歴史の解釈を変えたりするものだ」
「ありがとうございます。真実は引き分けなのですよ。実は私もミランセーヌも、同じ所作の時にガラスの靴の踵がぽっきりと折れてしまったのです。それで二人で大笑いしましたとも! そして悟ったのです。そもそも、礼法なんて競う物ではありませんものね。ふふふ」
「礼法で競うこと自体がおかしな事か、そうだな」
「ええ。きっとあれはそういう戒めだったのだと思っていますよ」
「何事も過ぎては良くないな。風情がなくなる」
「その通りですね」
ルインは霊体馬の速度を緩めた。多くの死者が眠る草原を渡る風は優しく柔らかく、空に横たわる星々の川は騒々しいほどに輝いている。
次第に霊体馬の足は遅くなり、ついに止まった。
「何という空だ……」
「本当に。しかも今夜は、いつものようには冷たくありません……」
ルインとティアーリアは、逆さまになって落ちて行きそうなほどの星空に言葉を失っていた。しかし、二人の前に黒い影が降りてきて、その沈黙を破る。黒髪に黒いレースのドレスを着た、闇色の翼をもつ少女は、明らかにティアーリアの眷族だった。
「ノイナ!」
ティアーリアが驚くが、黒い有翼の少女はため息をついた。
「気になってずっと二人のお話を聞いてましたけど、お二人とも少し『過ぎて』ないですか? 特にティアーリア様。あまり良い女でいると、男運が逃げますよ? これは眠り人様の男っぷりも良すぎるのかしら? どちらにしても、熱い夜とかとても訪れなさそうで、ノイナは心配です。ティアーリア様」
「悪戯も口も少し過ぎるわよ? ノイナ」
しかし、ティアーリアのやや厳しい口調も意に介さず、ノイナは続ける。
「初めまして、眠り人ルイン様。私はニュン氏族のノイナと申します。実は最初から『姿隠し』と『聞き耳』で観察させていただいてましたが、ティアーリア様の『寡婦』の宿命を外すには、ルイン様は少し男っぷりが良すぎると感じました」
「それはつまり?」
「戦い、お酒を召した時などには、ティアーリア様を寝所にでも呼んで、そのドレスを剥ぎ、淑女などほど遠くなるまで可愛がってあげて欲しいです」
「ちょっと、なんて事言うの! ノイナ、こういう事にも風情は必要よ?」
「ルイン様もそう思いますか?」
少しの沈黙ののち、ルインは慎重に話し始めた。
「詳しくは知らないが、孤独を強いる『寡婦』の宿命のなかで、誇りを保って淑女として長く生きてきたのなら、淑女らしい楽しみや願望もまた出て来る物だと思う。ならばそれに応えるのも大事な事だろう? それこそ風情の話だ」
ノイナの目は少し大きく見開かれた。
「あら、良い答えですね。ティアーリア様の趣向を重んじていると?」
「なるべくそうしたいと思っている」
「ふぅん。……それなら私は少し無粋だったかもしれませんね。では、私もミクリスたちの手伝いに参ります。失礼いたしました。姫様をよろしくお願いいたしますね」
ノイナは夜空に姿を消した。
「ごめんなさいルイン様、私、孤独に押しつぶされて心の平静を失っていた時期もありましたから。あの子たちなりに案じてくれているのです」
「わかっている。……ただ、何かできる事があれば言って欲しい」
「それなら、もうしばらくこうして、夜空を眺めていたいです」
「ああ、それは良いな。今夜は良い夜だ」
「そうですね。とてもあたたかな夜です」
ティアーリアは座り直し、ルインの背に寄りかかった。人間の女なら温もりだけが伝わってくるが、魔族の女性のそれは温かな体温の奥にある冷たい孤独が強く感じられ、この時間が大きな意味を持っているとルインには感じられていた。
「楽しめていますか? 私の誘い」
囁くように、ティアーリアが訪ねる。
「ああ、とても」
「私もです。とても……」
こうして、落ちていく流れ星が百を超える頃に、二人は帰途についた。
──いつの時代も流行は『流れ行くもの』である。私はある時、干上がった川の底に古く朽ちた船をみつけ、涙が止まらなかった。そこに真理があったのだ。
──無欲の隠者ルクセスの語録より。

初稿2021.08.05
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