虚無の彼方の月

虚無の彼方の月

 永劫回帰獄ネザーメア虚無きょむの砂の領域。

 名を消された男は黒い巨馬を駆り、暗い闇の下に延々と広がる青白い虚無の砂漠をいつまでも進み続けていた。ひび割れて熾火おきびを宿す大剣『鎖の剣』を背の鞘に納めてどれほどの時が経ったのか、そう思いかけて男は微笑んだ。

「時さえも欺瞞ぎまん、か……」

 神々の摂理せつりは男にとってとうの昔に欺瞞ぎまんと見破ったものであり、神々の永遠の牢獄とされるこの永劫回帰獄ネザーメアも、その各領域の間を隔てる虚無の砂漠もまた欺瞞ぎまんに過ぎなかった。

──私に逢いたい時は月に念じてください。

 男はしばらく前に逆さまに伸びた塔の中で出会った絶美の女神を思い出していた。しかし、この永劫回帰獄には月に該当する天体はなく、念じるも何も無かろうとふと笑う。ところが、それが変化を呼び起こした。あたりを黄金めいた光がつつみ、見上げればその光源はかつて見た夏の月で、次に視線を落とせば透けたとばりが開いており、そこにあの月の女神が立っていた。

──月と陰謀の女神、イシュクラダ。

 イシュクラダは緋の衣装ではなく白い夜着姿で、嬉しげに指を組んでは男を見つめている。

「呼び出されるまで随分と長い時が経った、とも表現できますが、その時は無いも一緒。それで黒いお方、虚無きょむの砂漠に女の肌が恋しくなり、この愛しきラダの肌でもお求めですか?」

「呼び出した形になってしまったか。まさかこのような形で君が現われるとは思っていなかった。久しぶりだな……ラダ」

「分かりますよ。月が存在しないこの地では私を呼びだしようもないとお考えでしたね? しかし月とは私の事でもありますから、私の事を思っていただければそれは月に念じたと一緒ですよ」

「そのようだな。覚えておこう。で……」

 透けた帳と月は消え、青白い虚無の砂漠に淡い光を放つイシュクラダが微笑んで立っている。

「せっかくですのであなたの馬に乗せていただけませんか? 退屈しないお話ができると思いますよ。この虚無の領域の旅も短くできるかもしれませんし。『美女と語らう時は短く、苦行は永遠のごとく』と言いますしね」

 イシュクラダはそう言うと、男の返事も待たずに男の後ろにひらりと乗った。

「さあ、お話しつつ旅しましょう? こうして二人そろえば、この神々の悪意ある寂寥せきりょうと虚無もまた絶好の薬味になると思いますからね」

「行こうか」

 男は静かに馬を進め始めた。

 しかし、歩みを進めてすぐにイシュクラダが不満そうに男のよろいに触れた。

「あのう、しばらくよろいは消していただけませんか? 永劫回帰獄ネザーメアのにぎやかな領域りょういきの間を分かつこの『虚無の砂の領域』には、本当に何もいません。ですから剣も鎧も当面は不要ですよ」

「鎧が痛かったか?」

 男の身体を包んでいた鎧は黒い火となって消え、黒いズボンに脚甲きゃくこうと、マントをひっかけた筋骨隆々のたくましい上半身、という姿になった。男は背負っていた大剣の鞘を取り、くらにぶら下げる。

「これは良いものですね。『四人の王騎士』を破った方の身体が見られるなんて、長い幽閉は私に随分と徳を積ませたようです」

 涼やかにそう笑うと、男の背中にひたひたと手の触れる感触があった。

「なぜそれを?」

「おそらく、あの方たちを破った者だけが私と出会います。それはほぼ不可能を意味していましたけどね。死の騎士モート、嵐の騎士セト、戦の騎士オーギュ、そして黄金の王アウリ……なんでしたっけ?」

「アウリク。そして真の名はアウリン王だ」

「そうでした。あなたは彼らを破り、そして殺さなかった。違いますか?」

「その通りだ」

「あなたのその戦いと行動の結果は、あなたに何をもたらしたと思いますか?」

「……自由ではないのか?」

「そうですね。それとまずは私を」

 軽口に聞こえるそれ以降、男は考えるように沈黙し、しばらくは馬が砂を踏むかすかな音が続いていた。

「君はもしかして、おれと同じく現行世界に従わぬ存在なのか? 行動の結果ではなく、存在としての」

 振り向いて聞いた男に、イシュクラダは微笑んで頷く。

「そうですね。だからある時から幽閉され、時の終わりに朽ち果てる宿命でした。しかしそうはならなかった。しかも、この永劫回帰獄ネザーメアや多くの地獄を創造し、あなたや私を閉じ込めた『隠れし神々』の予言を超えたこの状態はそれ以上! 無限世界イスターナルは今、誰も知らない状態に入りつつあります」

「よく分からんな。君の知っている話を教えてくれるか?」

 イシュクラダは月光のように涼やかな声でとうとうと語り始めた。声も言葉選びも男の知っている芸術のはるか上のひそやかな美に満ちており、虚無の砂漠の旅がいずこかの神の宮殿で語り部の女神の物語を聞いているような豊かな時となっていた。しかも、男にとって興味深い話がいくつも織り込まれている。

 イシュクラダの話は、『最初の女』の写し身にして、その女の抱えた理想を秘めた存在である自分が、本来なら時の終わりまで幽閉され、やがて世界の消滅とともに消えるか、そうでない場合は時の終わりに現れる『獣のような男』に殺される運命しか無かったのだという話をした。そこまで話して、イシュクラダは艶めかしく笑う。

「しかし、現れたのはまさかのあなた。誰より激しい怒りを抱えながらも抑制的で、永劫回帰獄の王たちを倒しても殺さず、私の呪いと神々のかせを解いて自由にしました。つまりあなたは現行世界をけがした可能性のある者たちとは別のりつをお持ちです。あなただけの、ね」

「そんなものがあるなど考えたくもないな。この見渡す限りの大層な虚無を創った奴らを詰問きつもんし、よどみがあれば正す。それだけだ」

「戦士はそれで良いと思います。面倒な事は私がいますしね。ただ……」

 イシュクラダは言いよどみ、沈黙してしまった。しかし、柔らかな手のひらが男の肩や背中に触れ、時に指で何かをなぞるようなくすぐったい感触が男を困惑させた。

「傷の痕でもなぞっていたか?」

「そうですね。戦士の背中を堪能たんのうしていましたよ? それに神々の呪いの文字を読んでおりました。彼らはずいぶんとあなたが怖いようですね。触れられるのはお嫌でしたか?」

「別にそんな事はない。それより、神々の『焼き印』が読めるのか?」

「読めますよ。穢れた小心者たちの文字がはっきりと。でも、あなたはそれを逆手に取ってしまった。今となっては誰もあなたを殺せない。そうでしょう?」

「そうなるな。かえって都合がいい」

 イシュクラダは男の肩を柔らかく叩くようにひたひたと手を置き、しばらく品よく笑っていた。誘惑に似た空気が漂うが、男は気にかけない。

「不死の苦痛を超えてそれを利用し、神々を殺さんとする者。本当に面白いです。ただ、私には難題もありそうです」

「難題?」

 先ほどからの妙な間に、何か話しづらい事があると感じさせるイシュクラダに、男は続きを促した。

「私のような現行世界の穢れた律に従わない女たちは他にもいますが、この穢れた律のせいで全員が惨たらしい運命をたどるようにされています。それを救ってほしいのですが、二つほど問題がありまして」

「……続けてくれ」

「まず、それをあなたにお願いしようにも、あなたは強大な理性をお持ちで私にさえ何も求めませんでしょう? これではよくわからない女からただの面倒な頼みごとをされただけになります。そして、あなたの行いの後には私のような女たちがたくさん現れる可能性があります」

 男はイシュクラダの話が終わると、一呼吸ほどの間を置いた。何かを話す気配がイシュクラダの心を引き締めた。

「よくわからんな。理不尽な目に遭っている誰かを助けるのに見返りなど不要だ。しかもなぜそれを君が用意する必要がある? それに、皆自由になれば好きに生きればよい事だ。それで少し世界がましになるなら何も問題はないだろう?」

「そうですけど」

 イシュクラダの言葉には隠さない不満が漂っていた。

「何か気を損ねたか?」

「別に。気のせいですよ」

「何か失礼があったならすまないな。この通り、戦うしか能がないのでな」

「なにもありませんよ」

 不機嫌なのかおかしみなのかわからない微妙な空気が漂う。やがてイシュクラダは抑えてはいるものの明らかに笑っていると分かる震え方をしており、男はある感触に気付いた。

「何か面白かったか? それに、言いづらいが触れすぎではないか? その服は薄い夜着一枚のようだが」

 イシュクラダの触れようは誘惑と誤解されかねないもので、しかも意図的にそうしているかもしれない遊び心と魅力に満ちていると男は感じていた。

「お嫌ですか?」

 イシュクラダは明らかに笑っている声だった。

「気にならないのかと思ってな」

「お嫌ですか? と私は聞いたのですが」

 笑ってはいるが同じ質問が繰り返され、有無を言わせない圧が込められていた。

「……嫌ではないな」

「なら良いでしょう? 私はあの多淫たいんな女が見出した理想そのもの。ですからとても魅力的なのにとても貞淑ていしゅくなのです。それはつまり、私にはあなたしかいない、となりますからね」

 男の心に遠い昔の何人かの女の記憶がよみがえった。終わりのない地獄での戦いの日々にあって、今でさえ男が人間性を保っていられる遠く微かな思い出。それが新たに積み重なる気配があった。

「もう少し触れますね」

 何かを狙いすましていたかのような言葉とともに、イシュクラダの腕が男の肩から胸元に絡んで密着した。微かに良い香りのする温かな吐息が男の肌をくすぐる。

 イシュクラダは全く拒絶の無い男の心に触れ、その過去を見た。あまりに凄惨で壮絶な、男がまだ人であった頃の記憶。その深い悲しみと怒りから長い時を経て、イシュクラダは眼前の虚無の砂の領域そのものだと感じ取っていた。

 しばらく、虚無の砂を踏む音のみが続く。

「見えますよ、あなたの過去が。二人の女の死と、一人の女の失われようも。とても悲しい物語なのに、あなたは自分を保つ大切な思い出として目をそらさなかったのですね」

イシュクラダの柔らかな言葉には、人を超えた慈愛の響きがあった。

「君はそれで驚いたり引くような女ではないと理解しているつもりだ」

「ええ。あなたなりの誠実さですよね。このような過去、私にはあなたを美味しくする薬味程度のものですが」

 触れて男の心を見んとする女神に対して、男は一切の障壁をつくらなかった。イシュクラダの心が触れ、男の視界が薄れるほどの強い魅力が流れ込む。この魅力に揺らがぬ者は、自分を除いてほぼ存在しないだろうと男は感じた。やがて裸の強い抱擁を超えたそれは、男の心のどこかにある冷えた部分を温めた。しかし、それ以上を求めなかった男は手綱を強く握り、自分に戻る。

 拒絶はせず、しかし必要以上に溶け合いもせず、あるがままにある。イシュクラダはそれに触れ、強く抱きしめるように寄り掛かった。

「息が乱れるわ。私がこんな……こんな答えの返され方をするなんて」

「おれとて、木の股から生まれたわけではないからな」

 男の冗談にイシュクラダが笑う。

「そうですね。そういえば『隠れし神々』を奉じる界央の地は『最初の人』を男性だったと言っていますが、そんなわけはないと思うのです」

「何の話だ?」

 しかし、イシュクラダは男に答えずに話を続け、豊かな胸の谷間から磨かれた黄銅おうどうの鏡を取り出した。

欺瞞ぎまんばかりの神々の創り出した虚無の地で、今の私たちはさながら男女二柱で旅をする『道行みちゆきの神』のよう。それならばこの欺瞞も暴けましょうとも」

「『道行きの神』なら聞いたことがある。永劫回帰獄ネザーメアにはその片割れの男もいた。しかしおれと君がそれだと? まさか……」

 先ほどのなまめかしい接触の意味に男は思い至ったが、イシュクラダはそれを自然に無視していた。

「たとえ話ですよ。……さあ、写し身たる我の鏡で照らしだされるはまことなり! 月光よ、鏡よ、神々の欺瞞に光を当て、世の真の姿を!」

 イシュクラダの小さな鏡の光は彼方まで届き、薄暗い虚無の砂漠を一閃した。突如として砂が山脈のように高く吹き上がり、激しい地響きが砂を嵐の海のように揺らす。

「何を起こした?」

 名を消された男は鎖のついた大剣を抜きはらった。

「あら、これは面白い事になりましたね。たぶん剣は要らないと思います。お話が出来ますよ」

 巨大な存在の気配が漂っている。しかし、敵意ではなかった。吹き上がる砂の壁の向こうに感じられる気配には、大いなる困惑が漂っていると男は感じていた。

 やがて、舞い上がっていた大量の砂が瀑布ばくふのように降り注ぎ始めると、その彼方に大きな二つのぼんやりとした光源と、天体のように丸く巨大な影が見えてきた。

──おお、ここはいずこか? 我に背負うべき世界はなく、未来永劫眠り続けるさだめであったはず。およそ時の終わりまで。

 声が空気を震わせる。あまりに巨大なその影の正体は、まるで天体のように巨大な亀だった。このような巨大さを持つ亀に関して、男はかつて聞いたことがあった。

「あれはもしや世界を背負う亀か?」

「ご存知でしたか? 今も生き残りがいますが、あれらはかつての『世界を背負う者たち』の一種、神々が世界亀ドルカルと呼んだ者たちですね。ここから導かれる推測は、この虚無の領域は生まれ得なかった世界を材料にしている、と。しかしこの私が少しだけあなたに触れれば、それは虚無に反する何かを生み出す力となります。それが今回は彼を呼び出した形になりましたね」

 とてつもない変化をもたらした行いを、イシュクラダは何の気負いもなく説明している。遥か彼方にいるはずなのに、あまりに巨大で近くに見える亀は二人をじっと見つめていた。やがて、その大きな口が開き、頭や甲羅から虚無の砂がいくつもの滝のように流れ落ちた。

──『人なる神の時代』の始まりを大いに祝ったあの女かと思えば、見た目は同じでも真逆に等しい存在とは。しかも、その女を殺さずに連れている男だと? つまりその男は……。

 巨大な亀は何か思案しているのか黙ってしまった。

「この人に関して試案を巡らせるのは時間の無駄ですよ。おそらく、『黒き時の破壊者』とも似て異なる何者かです。何しろ神々が名前を消してしまいましたからね。『黒き時の破壊者』なら、私を殺し、そしてあの女・・・の事も殺すはずです。しかしそうではありませんからね」

──面白い。我はただそれを眺めているだけでも退屈はせぬだろうが。

 世界亀の言葉にはしかし物足りなさが漂っていた。そこに男が声をかける。

「『世界を背負う者』ドルカルの眷属けんぞくよ。貴公は例えば、失われるはずだった世界を背負う事は可能か?」

──世界さえあれば。しかし、今の我はただの大きな亀に過ぎず、それは退屈に過ぎるのだ。退屈は我をむしばみ、やがてこのような砂と化するのみ。

 地響きのような声はまるでこの場を満たす世界の意識そのもので、そのような存在が全てが虚無だと言っている。それは、およそ普通の人間には耐えがたいものであろうと男は感じ取っていた。

「虚無の砂の領域とはよく言ったものだ」

「私とあなたはこれより強い自我がありますから何も起きませんが、生身の人間では魂が潰れて消えてしまいかねませんね」

 男の小さな独り言にイシュクラダが笑い、世界亀に目を向けた。

「では、あなたの背負う世界を用意しましょう。あの女について知っているなら、私にそれができるのも知っているでしょう?」

──その底知れぬ男の力を借りて、世界を産むつもりか?

「この方はそんな事・・・・をしませんよ。そんな事をしなくても既に……」

 イシュクラダは馬の鞍に立ち上がり、ありとあらゆる方向に目を凝らした。

「彷徨う世界は数知れず存在しているようです。行き場を無くした民たちも。あなたの甲羅にそのような世界を一つ載せ、民たちを受け入れたらあなたは晴れて世界亀となる。どうですか?」

 世界亀もまた頭上の暗い空を見上げた。

──随分と激しい戦火と、多くの世界の消滅と漂流を感じる。なるほど、我の仕事はありそうだ。

「でしょう?」

──しかし解せぬ。『黒き時の破壊者』であれば、その姿は黒炎こくえんまとうはずだ。その男にも黒炎の気配は漂っているがそれより強大な理性と抑制の力を感じる。あの女の写し身よ、この男はもしや、そなたの色香にも惑わぬのか?

「……思っていたより賢いのね」

 何か都合の悪い質問だったのか、イシュクラダは小声を漏らした。

「そうですよ。つまり、現行世界の律に殺されるはずだった私のような女たちが失われず、そのまま存在できます」

 地響きが起き、世界亀ドルカルの甲羅からまたも滝のように砂が流れ落ちた。

「笑っているように見えるが」

「笑っています。たぶん私が笑われています」

 流れ落ちてきた砂が亀の眼に入り、亀は払うように首を振った。

──この世界最大の問題に囚われぬ男か。面白い。女たちは大変かもしれぬが、まあそれも因果だ。あの女がやり過ぎたのだ。そなたも大変であろうがな。

 世界亀は再び大きく身体を揺らして笑った。

「余計なお世話ですよ。私ほどになれば、因果もまた美であり魅力ですからね。では、いずこかの世界を背負ってもらうまで私と共に来ていただきますね」

──よかろう。

 イシュクラダは再び黄銅の鏡を掲げた。くらい空に夏を思わせる温かな色の月が浮かび、その光が世界亀を照らす。巨大に過ぎる亀はすうと消え、後には静寂だけが残る。しかし、その景色に何か思う所があったのか、男は腕を組んで考えていた。

「何か思う所が?」

「ああ。横たわるこの景色はただの虚無に過ぎないが、大きな存在が虚無を感じている・・・・・・・・とかえって虚無感が増すものだなと思ってな」

「そちらでしたか」

 イシュクラダはまた少し不満の空気を漂わせている。

「なんだ?」

「私があの亀に何を笑われていたかは興味がない様子ですね」

「女の都合を詮索せんさくする趣味はないのでな」

「私は他人ではありません。ですので、あなたは私にもう少し関心を持つ必要があります」

「そうしなかったら、どうなる?」

「私が恥をかきます。既にだいぶいたたまれない感じです。神のちぎりであなたの心に触れても、これではあなたの前で一人遊び・・・・をしているようなもの」

「それは違うぞ」

「違うのですか?」

「君の事はしっかり感じ取っているし、とても良い女なのも理解している。しかし欲望と堕落の間に線を引くのは難しく、だから気を付けてはいるが、おれは君を拒絶していないだろう? それ以上は慎重であるべきだ。先ほども心は十分に触れ合っていたと思うがな」

「それはとても正しいでしょうね。でもまさか、私みたいな女を正論でどうにかできると……あっ!」

 イシュクラダがそこまで言った刹那、暗い空から聴色ゆるしいろ(※桃色に近い色)の光が彼女を照らし、その姿がゆっくりと消えてしまった。

「言い過ぎたわ! ごめんなさい、また私を呼びだして! しばらく無理かもしれませんが、必ず」

「待て、おれは何もしてないぞ?」

「わかっています!」

 その言葉を最後に、女神イシュクラダの姿は気配さえも全て消えてしまった。男は少しの間いぶかしんだが、より深い関係を望んで何か差し障りが起きたのだろうと見当をつけ、虚無の砂の領域の先に進む事を考えた。

──楽しい時はなぜあんなにも一瞬で過ぎ去り、苦しい時は永遠に等しく長いのか? 時とはしょせん、錯覚ではないのか?

──隠者ルクセス著『砂に記す』より。

 同じころ、現世とはまた異なる領域『夢幻時イノラ』の『嵐と花の宮殿パルナ・ガル・ゴータ』。

 女神イシュクラダは目の前の女に謝り倒していた。イシュクラダに怒っているのは、白いドレス姿に長い聴色ゆるしいろの髪をした完璧な女にして、この領域の主である至高の女だった。

──『最初の女』のいまだ純潔の娘の一人、不機嫌なセア。

 いつもどこか不機嫌そうな、それでいて目の離せない魅力を持つこのセアは、今回は不機嫌をあらわにし、両手を腰に当ててイシュクラダに説教めいた怒りを飛ばしている。

「ごめんなさいじゃないの。あんなに露骨に誘惑ばかりして! 目先の快楽と引き換えに全て取りこぼしたらどうするの?」

「それは分かるけど、ここまで力のある私たちがそんな好きにできないような事なの?」

「できないような事だから言っているんでしょう? それとも何? あなたは好き放題やって取り返しがつかなくなり、私に手を叩いて笑われたい願望でもあるの?」

「そんな事になるのかしらねぇ?」

「なら、試してみたら?」

「それは嫌よ」

 自分がしてきた事を改めて指摘されると、それをするのは嫌だというイシュクラダにセアはため息を漏らした。

「でも、あなたはそれをしようとしてたわ」

「あの人はとてもしっかりしているから、そんな事にはならないと思うけど」

「お情けでそういう事になるかも、と私は言っているの。寂しそうな女をほっとけない、みたいなね。それでもいいの? そうなったら私はしばらくあなたを見たら笑ってしまうけど、次第にかわいそうになって来ると思うのよね。『最初の女』とも呼ばれるあの女の写し身たるあなたが、よりによってあっさり欲望に負けて人のちぎりを交わし、時に囚われて歳を取り、過去の存在になってしまうのは。……聞いてないわね?」

 イシュクラダはいつの間にか大きな姿見すがたみを呼び出しては様々な艶めかしい姿勢を取っており、自分の姿を確かめつつもセアに目を向けた。

「私やあなたは現在の無限世界イスターナルにおける最高の女。その魅力に対して、あの人はあそこまで理性と尊重を持てるからこそ、隠れし神々もあの人を恐れている。そんな人だもの、私が好きにあの心に触れて満たされる程度では揺らがないはずよ。あなたは触れてないから不安なのよ。いっそあなたも触れてみたら?」

「言うわねぇ」

 セアは再びため息をこぼすと、以降は何も言わなくなってしまった。

──無限世界イスターナルは次第に穢れが拡大しているという噂が根強い。時と共に良くなるはずの世界はむしろ原初の頃より悪化している。何がそれを引き起こしているのかは誰にもわからないが、それは見えざる呪いのようだ。

──大賢者フェルネーリ著『無限世界イスターナル』より。

 イシュクラダが去った後も、男の旅は続いていた。しかし、見れば遥か彼方に樹影が見え、恐ろしい獣の咆哮が聞こえてきている。男はそれが、この地獄で永遠に焼かれ続ける諸王たちから聞いた、『獣の時代の獄』ではないかと目星をつけた。動きのない木々の生い茂る、何かを激しく憎む巨大な獣たちの住まう暗い領域。

 しかし、かなり遠いとされていたそれは伝聞よりはるかに短い旅となり、たどり着けぬほど広大な虚無の砂の領域で、女神の干渉が時を大幅に縮めた可能性に思い至った。

「今度会ったら礼を言うよ、ラダ」

 『獣の時代の獄』には、伝説的な狩人たちが何名か囚われているとされ、男はそれらの狩人を開放しようと考えていた。

──『獣の時代』を終わらせたとされる最高の狩人にして射手の神モーンは、『原初の大征伐』からしばらくして行方知れずとなった。一説には彼女こそが女性で唯一、永劫回帰獄ネザーメアに閉じ込められてしまった存在ではないかと噂されている。

──アーカシア著『蒼城の記』より。

初稿2026.03.21

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