第十話 災いの予感・前編
時間は眠り人が工人の都市国家に出発した頃にさかのぼる。
雪のちらつく暗い空の下には高い連山があり、それらの頂きに囲まれ、見守られるような高い平地があった。そこだけは多くの建物の窓から漏れる明かりと、尽きる事のない篝火の揺らぎでぼんやりと明るい。
──上層地獄界のとある領域、古きヴァドハル戦士の安寧の地『エイリフザールの館』。
『戦士の永遠の館』を意味するこの地、武骨な戦士たちの笑い声が響く中、彼らに似つかわしい太い柱に大雑把な石積みの壁という造りの建物の間を、吹雪を纏った若草色のドレスの女が静かに歩いてゆく。

──上位魔族の女性の首席、『氷の女王』サーリャ。
サーリャは多くの屋敷から漏れ聞こえてくる戦士たちの豪快な笑い声を聞きつつ、ひときわ高い丘に建つ、半ば崩れかけた白い石組みの古城を目指していた。そんな彼女の前に光の粉が舞い、二人の乙女が現れる。二人とも、この領域の由来たるヴァドハルの女の民族的な衣装を着ており、山の娘の装いにして清楚と艶やかさの間にあるその衣は、胸元と腕の魅力が強調されている仕様だった。二人とも所々を編み込んだ輝ける金髪をしており体格が良く、やや視線険しい一人などは大女と言っても良いほどに全てが大きい体格をしており、それでも美しさのほうが勝っている。もう一人、普通の背丈に見えるがそれでもかなり体格の良い女は、うっすらと緑銀に輝く鹿角の竪琴を手にしていた。サーリャはこの二人の乙女がただの娘たちではないのを知っている。

「サーリャ様、なぜあなたがここに?」
大女のほうが警戒を隠さない、しかし敬意のほうが勝る口調でサーリャに問いかけた。
「久しぶりねファグラ。ジルは今日も文句を言いながら水浴びか鍛錬でもしているかしら? 重大な決まりごとがあって来たのだけれど」
「決まりごと、でしょうか? しかしそれは良い知らせではないと思います。あまりに承服しかねる内容なら、この戦乙女の竪琴の弾き手が全て絶えようとも、この地はジル様をお守りすることでしょう」
美しい大女であるファグラではないほう、鹿角の竪琴を腰に付けた女が歌うような美声と綺麗な言葉使いで先んじて答えた。その様子にサーリャが微笑む。
「違うわ。リョズ、悪い知らせではないはずよ。ただし、自由になった結果ジルが何かをやらかしてもそれは彼女の責任ですけどね」
「自由と言われたか、サーリャ様」
大女のファグラが聞き直す。
「ジルデガーテの数々の問題行動は不問にして禁固が解かれることになるわ。詳しくは彼女に直接話しますけどね。あなたたち、ジルがどこにいるか案内してくれるかしら?」
「ならば仕事をしよう。この姿ではいけないな」
ファグラとリョズの二人は光の柱に包まれ、所々に羽根や翼をあしらった意匠の黄金の鎧に身を包んだ姿となった。
──失われたヴァドハルの戦乙女、『大羊のファグラ』と『声乗せのリョズ』。
「サーリャ様の読まれた通り、ジル様は今日も信じがたい鍛錬をして、今頃はこの地の新雪と松の枝葉で、かつて誰もが羨んだその体を磨いている頃と思います」
二人の戦乙女はサーリャの読み通りに、ひときわ高い場所に建つ城を目指して歩き始めた。
「そう。おそらくあのジルを御せる殿方が現れたので今回の決定になったのですけれどね」
「サーリャ様、それは冗談を言っておられるのか?」
目を丸くしたファグラの顔には、どこか愛嬌と魅力が漂っている。
「ジル様を御せる殿方と言えば、それは私たちの新たなる王の資質を持つ殿方を意味します。この竪琴の弦が全て時の指によって擦り切れたとして、そんな方が現れるものでしょうか?」
リョズは詩歌を唄うように絶句してしまい、二人のその様子にサーリャはため息をついた。その冷たい息で空気が凍り、きらきらと流れ去る。
「私はあなたたちやヴァドハルの戦士たちがジルに捧げる信頼や忠誠のほうが理解しかねるわ。彼女が首をはねられないのは主にあなたたちへの信頼よ。ジルデガーテに、ではないわ。問題を起こしてばかりだもの」
「サーリャ様、申し訳ないが我々の主への辛辣な評価はやめていただきたい。魔の国の方々はジル様を『狂乱の戦乙女』と呼ばれるが、ジル様はヴァドハルの誇りとその血肉だ。高潔で鋼のように厳格ゆえ、緩い方々にはそうも映ろう」
ファグラの表情は不満を隠していなかった。
「私はサーリャ様の言いたいことも分かりはします。魔の国やウロンダリアの人たち、ジル様だけでなく私たちまで避けてる。かつての私たちはそれはそれは羨望の的だったのに、今はこんな暗く寂しい地で戦士たちのために宴を開いては歌い続けて、それでどれくらいの年月が流れたのでしょうか? やがて私のため息は鉛のように重く沈むでしょうね」
『歌い手のリョズ』の目が、澄んだ深い青色から魔族の赤い目に変わり、強い情念の火がその眼の中で燃えた。
「やめろリョズ! まだ終わっていないんだ、我々は」
「本当にそうかしら?」
サーリャの言葉と共に周囲の空気が凍り、きらきらと小さな冷たい粉が舞い始めた。その一言にファグラの顔色も変わり、その目が同じく赤いものに変わる。
「我々は決して堕落もしていないし、終わってもいない! それを愚弄するなら……」
ファグラの手が武器を探そうとするその前の動作に見えるものとなり、サーリャは冷たい吐息を短く吐いた。夜の暗さと吹雪の濃さが深まる。その様子に、二人の戦乙女の赤い目は元の澄んだ色に戻った。
「申し訳ない。しかし、我々は堕落していない。断じて……!」
ファグラとリョズの二人は苦しそうに、何かの発作を抑えるように胸に手を当て、しばらくするとその様子は落ち着いた。
「安心なさい、ジルもあなたたちもきっと今よりは楽になると私は見ているわ」
「私たちまでが? サーリャ様、それはどういう意味なのだ?」
「今説明しても詮無いことよ」
ファグラとリョズは鎧の音をほとんど立てない柔らかな所作で歩き、陸の上の白い石組みの城へと入っていく。船をひっくり返したような屋根のその城は、戦乙女の城としてはあまりに殺風景でその内部は暗く、壁にもドアにもありとあらゆる武器が掛けられ、飾られ、天井からは城の主が討ち取った巨人のものと思われる大きな武器がいくつも鎖でぶら下げられている。
「相変わらず、かつてヴァドハル主席の戦乙女と謡われた女のものとは思えない城ね。城というより武器庫だわ。でも、これが……」
サーリャは一瞬足を止めては何かを懐かしむように微笑み、先を進む二人の戦乙女の後を追う。戦争でもしたかのように矢や槍があちこちにびっしりと突き刺さる中庭と、やはり武器だらけの通路を超えて城の裏山へといたる。
「ジル様!」
ファグラとリョズはほぼ同時に驚きの声を上げた。岩場に囲まれた広い沼があり、その浅瀬には銀のぶちのある白い馬と、全く見事な体つきをした長い銀髪の、堂々とした裸の女がいた。
不機嫌そうに美しい眉をゆがめた女は、素っ裸のままでひらりと馬に乗る。
──上位魔族、失われたヴァドハルの堕落した戦乙女の首席、『狂乱の戦乙女』ジルデガーテ。
「ジル、久しぶりね」
ジルデガーテは輝く銀髪を揺らしつつサーリャを一瞥した。
「すでにこの地の封印は解かれ、委細は承知した。『陰なる府』は私を御せると踏んでいるようだが、そんなことができると思わせる不遜な男など我が剣と矢で針鼠のように惨たらしく殺してやろう。さらばだ!」
銀のまばゆい光と共にジルデガーテは美と獰猛さの調和した白銀の甲冑に身を包んだ姿となり、青地に銀の縁取りのなされた狼の旗――ヴァドハルの戦旗――を手にすると、銀の流星のように飛び立ってしまった。
「ジル様! ……行ってしまわれた」
「ジル様はまた流れ星みたいに!」
絶句するファグラとリョズ。
「ふっ……!」
対して、サーリャはしばらく口元を隠して笑い続けていた。
「相変わらず面白いわね、あなたたちの首席。期待を裏切らないわ」
こうして、危険な上位魔族の姫の一柱、『狂乱の戦乙女』ジルデガーテがウロンダリアへと向かった。眠り人一行は当然、そんなことを知る由もなかった。
──原初の大征伐において、ヴァドハルの戦乙女と彼女たちが見出した戦士たち、そして主神ヴォーダンに仕える短躯の職人種族スレッギたちは一定の存在感を得ていた。しかし、ある時杣人の国ハーシュダインと揉めたこの地は、次第にその存在感を失っていった。
──リョズ著『ヴァドハルの詩』解説より。
時は現在、夕刻の魔の都、そして眠り人の拠点『西の櫓』
夕闇の迫る中、鼻歌を口ずさみながらルインの部屋への階段を掃除していたチェルシーは、バルコニーの外に妙に小鳥が多いのに気づいた。あることを思い出して階段を下りると、バルコニーの全ての手すりの上に様々な小鳥たちが並んでは好きに歌っている。
人間には少しやかましいさえずりにしか聞こえないそれは、チェルシーの耳には明確に歌詞のある鳥の言葉と歌として聞こえていた。
──ティアーリア様が来るよ! 沢山の夜を超えてなお綺麗なままの鳥の姫、ティアーリア様が!
──ティアーリア! ティアーリア!
小鳥たちの歌で色々と察したチェルシーは銀のはたきを肩に乗せると、ため息をついて空を見回した。今夜魔の都の空に浮かぶのは小さな月ルンネと、影のように黒い直方体のモノリスだけ。モノリスの暗い影が伸びるようにバルコニーに落ちると、影のように黒い羽根を散らせて赤いドレスの女が現れた。けぶるような赤い瞳と、濡れたように黒い長い髪。完成され過ぎた女の身体と長身を併せ持つ姿は完璧な美と言っても良いが、その佇まいや肌には魔族特有の暗い魅力が漂ってもいる。

──夜魔鳥リーニクスの鳥の姫『魔の国一の淑女』ティアーリア。
ティアーリアはふと微笑むと、次はせわしなくも眉根を寄せた。
「ちょっとチェルシー、『陰なる府』から知らせが来たけど、眠るあの人は目覚めて、もう工人の都市に向かっているんですって?」
「お知らせを送ったのに返事をくれなかったじゃないですか。もう絶対こうして遅れてくると思ってましたよ」
「仕方ないでしょ、いつもの変わりない状況報告だと思ったし、何しろあの国、エンデールは今大変なのよ? どこもかしこも赤ん坊だらけ。私たちが歌って夜泣きを鎮めなかったら、たくさんの若い母親が参ってしまうわ」
「まあ、自分の業に真摯に向き合っているのは立派なことなんですけどね」
「でも、その永遠に等しい日々も終わりを迎えようとしている。そうでしょう?」
「そうなるといいですねぇ」
チェルシーのいささかあいまいな答えに、ティアーリアは何かを読み取ったのかにんまりとした笑みを浮かべた。
「あっ、なんか色々勝手に察してますけど、変な自信を持つのはやめた方がいいですよ? 何しろご主人様は……」
「分かってる。馬鹿なことはしないわ。で、賢いチェルシー、私は何をしたら良いかしら?」
「ああもう、やりづらいんだか、やりやすいんだか」
チェルシーは言いながら腰の巻物入れから、その入れ物の小ささに不釣り合いな大きな巻物を取り出し、放り投げる。幻影のように広がったそれは空中に浮かぶ透けた地図となった。
「これは南方新王国の、特に『鉄の駿馬』の線路がある地域の地図ですが、この干渉地域に何か所か不自然な隊商のキャンプがあります。特に、燃料の補給に大事な炭鉱の町ローンサのあたりに集中しています。情勢から鑑みるに……」
ティアーリアはしなやかな手を組み、その白い指を顎に当てて首を傾けた。
「ふぅん、手際がいいわね。つまり偽装したバルドスタ戦教国の勢力でしょ? 変事が起きて工人の都市国家ピステを占領したら、すぐに鉄道の沿線の町々も抑える腹積もりね。でもこれは古王国連合の取り決めに違反する行為だわ」
「というわけで後はお願いしますね、お掃除が忙しいので、じゃ!」
チェルシーはくるりと背を向けて暗い屋内に姿を消した。音もなく魔の国の給仕服の小さなマントが翻り、闇に消える。予想外の対応に口を開きかけたティアーリアは伸ばしかけた手を地図に向け直した。
「はいはい、全部察して対応しますとも。冷たく熱い私の情念を唯一御せる人のためにね」
小鳥たちは全て飛び立ち、ティアーリアもまた闇のような翼を広げて夜の闇の中に姿を消した。
「あっ、そう言えば!」
『狂乱の戦乙女』ジルデガーテが解き放たれた件をチェルシーは伝え忘れていたことに気付く。しかし、わずかに考えては特に伝えもせず、再び鼻歌を口ずさみながら掃除に戻った。
──正体は夜の空を飛ぶ巨大な魔鳥とされるリーニクスたち。細身で妖艶な女性の姿を取る彼女たちは永遠に孤独である『寡婦』の宿命を持つとされている。その業が唯一軽くなる行いが、その美声で歌を歌い、赤子の夜泣きを鎮めて若い母親を休ませることだとされている。
──アデラ・ラナン著『鳥の姫』より。
夜、『鉄の駿馬号』の応接室。
ルインはアゼリアが連れてきた『鉄の駿馬号』の責任者でもあるという前期工人の男性、ゲネンと密会を始めていた。
「あなたが目覚めたという『眠り人』、ルイン殿か。私はゲネン。この『鉄の駿馬号』の開発と運行の責任者で、このアゼリアの大叔父にあたる。この度は身内からの不始末に手を煩わせてしまい、心が痛むが、いずれにしてもこんなにありがたいことはなく、心から協力を感謝したい」
「何ができるかは分からないが、火急の事態だ。できるところまでやってみようと思う」
握手を交わすルインとゲネン。しかし、ルインの目はアゼリアとは大きく異なるゲネンの様子にどうしてもひきつけられていた。
長身痩躯で、暗い灰色をした彫像のような肌と、掘りの深い目。しかし、影になりがちなその瞳に光が当たれば規則的な幾何学模様が見えるようで、また声も反響が強く聞こえる。
その視線にゲネンが気付くが、表情は変わらないためルインは一言わびた。ゲネンは慣れた事のようにルインに顔を向ける。
「お構いなく。様々な種族がいるウロンダリアと言えど、私のような『前期工人』はもう珍しく、我らの祖たる『古きエンギネア』の特徴を私のように多く持つ者はそう多くはないのだ。この姿もまた我らの歴史の証。後学として見られる分には別に構わない」
ルインは無言で頷いた。
「ゲネン大叔父は容姿を変えられる前の『工人』で、人とは違う様々な特徴があるの。お兄さんと同じ『眠り人』レオニード・ファシルに容姿を変えられた人たちと、その人たちから生まれた私たちはだいぶ人間に寄ってて『後期工人』と呼ばれているんだけどね」
アゼリアの声は人間の女性と違いがない響き方をしている。
「さて時間は貴重だ。かいつまんで要点を話したい。今回の動乱でバルドスタ戦教国の介入を手引きしたのは、人間の血が濃い集団だ。彼らは『新しい波』という結社を作ってこの愚かな事態を引き起こした。この結社に、人間である私の妻と、二人の息子たちも加わっている。穏便に、とはとても言えない。必要なら殺してでも、我らの工人の都市国家を守ってほしい!」
無表情でも、二重に響くその声は悲痛を絞り出したように重かった。
「ゲネン大叔父、いきなりそんなこと言ってもお兄さんが困るよ。経緯を話して。『人間の血』の話を」
「ああ……そうだったな」
「『人間の血』とはどういう話だ?」
ルインの質問に、アゼリアが困ったようにルインとゲネンの顔を交互に見た。
「ちょっと言いづらいんだけど……」
「私が話す。『眠り人』レオニード・ファシルによって私たちの容姿は人間好みに変わり、途絶えかけていた我々は多く人間と婚姻を結び、アゼリアのような『後期工人』も増えて我らの絶滅は免れた。しかし……」
ゲネンはテーブルに視線を落とすと、深いため息をついた。
「命の短い人間の拙速さは、一つの事を追求し続ける我々と大きく異なっており、財貨と承認を求める血が騒ぐ者たちが現れ始めた。我らの心身の特性を失いつつも、技術は我々のように高い。そのような者たちが世界に自分たちの技術の素晴らしさを広めて認められ、あるいは多くの財貨を得んとして、やがて結社を組んで騒ぎを起こし、他国と連携し始めたのだ! あろうことか妻と息子までもが!」
ゲネンの声は大きく響き、重い沈黙が横たわる。しかし、それはそう長くなかった。
「対応しよう。なるべく上手に」
ルインの静かなその声には妙に確信めいた強みがあり、ゲネンとアゼリアは、ルインの目に一瞬だけ火のような赤い光が見えたような気がしていた。
──我らの起源はよくわからぬ。しかし我々は自らを『偉大なる古きエンギネアの末裔』とする。彼らは星々を大きな船に閉じ込めて長く旅をしていたと伝わっている。
──工人たちの言い伝えより。
初稿2025.12.04


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