第九話 翡翠戦争

第九話 翡翠戦争

 南方新王国なんぽうしんおうこくから工人アーキタの都市国家ピステに向かう機関車『鉄の駿馬号』。その特等客室のサロン。

 あらゆる魔法的な効果を打ち消す鉛によって壁内が守られているサロンの中で、古き民の王族の女性セレッサと、眠り人ルインの密談が続いていた。

「私は、このままずっと側仕えである程度の安全は保てますでしょうが、叶うなら遠い昔にこのウロンダリアから離れてしまった私たちの故郷、『白き樹林の国』パルラク・シェヌ・リーアを見出し、この地にいる古き民アールンたちをその地に導きたいのです。恐らくもう、このウロンダリアは私たちへの祝福が無い地になりつつありますから」

「おれにできそうな事は何かあるか?」

 ルインの問いにセレッサは少し驚いた顔をすると、古き民アールンの特徴とされる涼やかな笑顔を浮かべた。

「これ以上していただくことなんて求められませんよ。それに、今もその地が存在しているかも定かではないのです。古老たちはその様子をありありと伝えてくれますけどね。海水に大きな根を張って繋がり合い、大陸のようになった世界樹ユグラの樹林。かつてそれは西方にあったとされ、海岸から歩いて渡れたそうです。しかし、遠い昔の私たち『古き民アールン』と人間たちの戦争『翡翠戦争ひすいせんそう』によって私たちが破れて以降は、大陸から離れて海の遥か彼方に精霊によって運ばれたとされています。まるで……」

 セレッサは包み込むように持っていた木の器を持ち上げると、満たされていた透明な飲み物を少し飲んだ。

「まるで、私たちの住む場所がここではない、とでも言うように」

 ルインを見つめるセレッサの目には不思議な信頼があり、ルインもまた妙な感覚だった。夢によって繋がりがあるとはいえ、現実では知り合ってわずかな時間しか経っていない。それでも長く言葉を交わしたように共感でき、その気持ちが良く分かった。

「ただ、もしそこを見出しても、たとえいかなる理想郷だったとしても、ルイン殿の元を去る気はありませんよ」

「覚悟は分かっている。その上で、幾つか聞きたい事がある」

 セレッサは黙って頷き、動いた髪に西日が当たってきらきらと光った。

「人間との戦争はなぜ起き、どのように負けた?」

「それが、理由がよく分かっていないのです。私たちの間でも、困ったことに大きな謎とされています。理由が分からない為に人間たちとの関係の取り方も分からないままなのです。ただ、最初に戦争を仕掛けたのは私たち『古き民アールン』の側だったとされています。『白き樹林』の皇帝エンシルデルが当時の沿岸諸国に戦争を仕掛けたと」

「それ以前の君らと人間の関係は?」

「それが、とても友好的だったとされています」

「一番大事な部分が分からない、か。それでは軋轢あつれきの消しようがないな」

「そうなのです。皇帝エンシルデルとその配下の者たちはある時から狂気や怒りの精霊に囚われたように人間たちを攻撃し始めたとされ、人間たちは私たち古き民アールンが人間を見下しているせいで起きた戦いだろうと。実際、私の兄や、私の付き人など、態度を改めない者たちも多く、それは言い返せません。でも、高潔なエンシルデルは人間とは友好的で、幾つかの古王国こおうこくとは同盟関係でもありました。人間の国々も対応に困惑した記録が残っています」

「そこに何かがあるな。調べる方法は? または、何か知っている事は?」

 セレッサに問うルインの暗い茶色の目に西日が差した。束の間明るくなったその目はしかし、静謐せいひつで何の動きも見えず、多くの人間に見いだされる欲望の光が全くない。この人は本当に人間なのか? という疑問がセレッサの中で強い興味に変わり始め、それが王族の間でしか伝わっていない秘密を語ることを選ばせた。

「私たち王族の間では、エンシルデルは何か深刻な病に侵されていたのでは? という疑いがあります。しかしそれは、普段はあまり病にかからない私たちがかかるような、悪しき魔法の性質を帯びたものの可能性が高いです。何か都合が悪くて隠されている部分もあるかもしれません。現に、優勢だった戦争は聖国せいこくの……あ、ルイン殿は聖国に住まう神々に近い人々『天の人』、ダイヴァーたちをご存知ですか?」

「いや、知らないな」

「古王国のある地が『高き地』と呼ばれる所以の一つです。人間の努力では追いつかない神威の如き力を示せる聖なる不死人たち、それが『天の人』ダイヴァーです。エンシルデルの起こした翡翠戦争は、ただ一人の『天の人』と、彼女が駆る古竜こりゅうダファールクスによって、たった一日で灰にされたのです」

「圧倒的な力と無慈悲な殲滅に気を取られがちだが、大規模な浄化を急いだようにも見えるな」

 ルインの感想に、しかしセレッサは眉をひそめた。

「ルイン殿、火で私たちを焼き殺すのは私たちが最も忌む死に方です。私たちの同胞がいる時は気を付けてくださいね。侮辱されたと思われてしまいますから」

「気を付けよう」

「その上で、私たちもルイン殿と同じように考えています。そんな手段をとらざるを得なかったのではと、しかも、それについて聖国は詳しいいきさつを説明してくれません。秘匿されているのです」

「やはりそこに何かあるな。秘匿ということは双方にとって都合の悪い何かがある。隠すべき何かが」

 ルインは車窓の外に目をやり、次に木の器に入った水を少しだけ飲んだ。かすかな香りと甘みがある。

「セレッサ、おれの『眠り人』という立場で何らかの成果や風評を上げたら、その情報に関わることは出来ると思うか?」

「聖国の象徴にして、ウロンダリアの法と秩序の象徴でもある現在の神聖乙女イス・ファルタラルセニア・ラナルス様はルイン殿が現れる前は『最後の眠り人』とされていました。ですので、ルイン殿は格式的には同格です。可能性はあるかと。仰る通り、成果や風評があればそれは強くなるでしょうね」

「分かった。何か成果を上げて、いずれ聞いてみよう」

「気持ちはとても嬉しいのですが、それは困難と危険を伴います。側仕そばづかえで私が近くにいるのもかなり危険な判断なのに、そんなことをしたら人間社会の私たちを良く思っていない人々を敵に回しかねません。そこまではとても求められません」

 ルインを大変な迷惑に巻き込みかけたセレッサの語気は静かで強いものだった。思わず相手の『心の精霊』に働きかける特別な声を使っていた。しかし、ルインの目も雰囲気も全く揺らがず、セレッサは驚愕していた。古き民アールンの王族の声の力が通じていない。

 対して、ルインはどこか不敵に微笑んだ。

「眠り人は自由な存在なのだろう? 彼らがよく思わないのも自由だし、おれが興味を持って調べるのもまた自由だ。対して、セレッサは多大な犠牲を覚悟でここにいる。代価を払おうとしているものが一番恩恵を受けるのは当たり前の話だと思うが」

「代価と申されても、私はまだ何も……」

 セレッサは結局のところ、ルインが自分の身体を所望しているのを遠回しに言っているのかという考えが一瞬よぎったが、そうでないのは明らかだった。計り知れないが、だからこそ希望がある。

「少し失礼なことを考えそうになりました。ルイン殿の無理ない範囲で何か進展したら嬉しいです。私も共にこの事に臨みたいです」

「おれも、まだどこまで何ができるのか、よくわかっていない。失望されないようにやっていくさ。知らないことばかりだしな」

「ありがとうございます。おそらく知らないであろう言葉がたくさん出てしまいましたが、他に聞きたいことはありますか?」

「古代の戦争がなぜ『翡翠戦争ひすいせんそう』と呼ばれているのか? そして聖国せいこく古竜こりゅう、確かダファー……」

「ダファールクスですね。その名はダギたちの言葉で『大火の竜王』を意味します」

「その竜を駆っていた『天の人』の名は?」

「聖国の戦力の一角である四人の古竜騎士こりゅうきし四天聖してんせい』の一人にして、火と大剣の女神ヴァルミス様の使徒でもある『火天かてんのヴァーミリア』ですね。女神ヴァルミスは私たち古き民アールンの時代を焼き払った神の一柱とも噂され、畏怖と尊敬の対象でもあります」

「……強そうだな」

「とても。彼女はその気になれば半日で一つの大国を焼き払えるでしょう。とても美しく、恐ろしい形で。それから……」

 セレッサは革のベストのボタンを外す。

「おい何を?」

「脱いだりしないですよ」

 微笑んだセレッサはさらにシャツのボタンまで外して、輝くように白い肌の胸元に手を入れると何かを取り出した。首飾りの銀の鎖の先に翡翠色ひすいいろの小枝の欠片が淡く輝いている。それは長い時の摩滅まめつを経たのか、珊瑚さんごの枝のように滑らかにすり減っていた。

「遠い遠い時代、『岩と大樹の時代』に在ったとされる翡翠ひすいの枝の欠片です。私たち古き民アールンの多くはこれを身に着けているものなのです。『翡翠の枝に誓う』という言葉があり、それは私たちの正当性と古い起源に誇りを持つ事を意味します。その言葉により、あの戦争は『翡翠戦争ひすいせんそう』と呼ばれているのです」

「ありがとう。おおよそは理解出来た。融和ゆうわか、あるいは距離をとるか。いずれにせよ、真相を知らないことには正しい判断ができる保証がないな。それがずっと続いて来たと」

「その通りです。……ん?」

 セレッサは何らかの違和を感じて一瞬手を止めたが、今はそれを考えないようにした。

「どうした?」

「……いえ、大丈夫です。何でもありません。たくさん話を聞いていただけましたね。ルイン殿は他に聞きたい事はありますか?」

「いや、とりあえずは問題ない。おれなりに整理して何かわからなくなったらまた聞かせてもらおう」

「ありがとうございます。貴重なお時間をいただきましたね。では、私も調べ直したい事もありますので失礼しますね」

 セレッサは何か気がかりな事でもあるのか、素早く立ち去った。

「聖国か……」

 ルインはサロンの天井を眺めた。磨かれた木材と質素な青い布張りの内装。しかしその天井には銀糸で四方の角から身を乗り出す竜の姿が編まれている。

──女神ヴァルミスは私たち古き民アールンの時代を焼き払った神の一柱とも噂され、畏怖と尊敬の対象でもあります。

 セレッサの言葉とともに、炎のように赤い、黒く焦げつつも美しい衣装に身を包む、大剣を持つ女の姿が蘇った。

──火の花より熱く、私はあなたを信頼しているけどね。それに今夜は月も綺麗。踊るように手合わせをしましょう!

 言葉とともに、視界にきらめく炎の海が広がり、ルインは思わず右目を手で覆った。

「今のは……?」

 天井は静謐せいひつな竜の柄のままで何も変わりはない。いぶかしんでもなんの手がかりもない以上、ルインはそれ以上考えることはやめ、セレッサの話についての考えを巡らせることにした。

──古き民アールンたちは宝石の中でも特に翡翠の古枝を至上の物としたため、その身分を示すものは翡翠であった。彼らが認めた人間も皆、翡翠を身に着けていたのである。この、いわば彼らの価値観を打ち破るのが『翡翠戦争ひすいせんそう』であった。

──ルヴァン・ザルエ著『翡翠戦争』より。

 セレッサの個室。

 ルインとの話し合いから足早に戻って来たセレッサは、部屋の鍵を閉めると革のベストやシャツを脱いだ。眠り女になった時に支給された胸当ての下着だけになると、明らかに以前よりもきつい感覚がある。

「やっぱり……」

 セレッサはさらにそれも外した。精霊や女神にも匹敵するとされるその肌と胸は霧のように白い。しかし隠せない違和感にも気づいた。多くは人間の女性に比して控えめなはずの胸のふくらみが大きくなっている。それは、人間と深く関わった古き民アールンの女性にたまに起きる事だった。

──心や魂が触れれば、セレッサさんの身体も変化するかもしれません。それでも『ねむ』に志願しますか?

 最初にチェルシーにされた説明が思い出される。古き民アールンの女性にとって胸が大きくなることは、人間の男性との関わりのほかに、人間のように現世のごうとも大きく関わる運命を示しているとされていた。

 セレッサはふくらみを確かめるように両の胸を手のひらで包む。

「どうか、これはルイン殿とのかかわりによるものでのみ、ありますように」

 それ以上胸が大きくならないことを願うと、やがて眠りに落ちてしまった。

──人間の男とかかわりを持つのは、暴れ馬とちぎるくらい破廉恥はれんちで穢れた行いです。そのような冒涜的な行いはやがて、精霊の声が耳に届かなくなり、その姿を見ることも出来なくなるでしょう。

──高齢の古き民アールンの女性の苦言。

 魔の国と繋がりのある領域、上位魔族ニルティスたちの本拠地、上層地獄界じょうそうじごくかい

 人間たちの世界よりも高い次元に存在し、だからこそ人間には容易にたどり着けないこの魔の領域は、己を知らぬ者には刻々と変容して移ろい、やがて正気を保てなくなる恐ろしい領域でもあった。

 そのとある場所の暗く瞬く星々の下、山のように大きな釣鐘つりがねを逆さまに大地に置いたような構造物があった。大釜おおがまのようにも見えるその内側は、火を失って崩れつつある白いのような人外の建物であり、時折まぶしい流れ星が夜空を横切ると、岩に象嵌ぞうがんされた黄金や銀の古めかしい模様がうっすらと光る。

 この場所こそは上位魔族ニルティスの女たちの政治と陰謀を司る『陰なる府』の中心地であり、そして、かつての失われた時代と世界を象徴する場所の一つでもあった。

──陰なる府の議事堂、冷えた古き

 最下層の円形の壇上に、黒いぼろぼろのマントとフードに身を包んだ何者かが現れた。

──上魔王の相談役、かげなる大婆おおばば

 陰なる大婆は曲がりくねった杖で三度、壇上を叩く。

「陰の花々よ集いたまえ! 幾つか状況を動かさねばならぬぞえ!」

 歳と威厳を同時に感じさせる人外の声で大婆は呼びかける。と、多段に色とりどりの暗い炎や光の柱が現れ、それらは角や翼、尻尾、様々な肌の色という多種多様な姿になって、唯一の共通点――むやみに豊満できわどい衣装に身を包んだ、きわめて魅力的な――上位魔族ニルティスの女たちの姿を取った。

 女たちはそれぞれ独特なひそやかな笑いを浮かべると、ある者はその長く綺麗な足を組んで座り、ある者はその豊満な身体をゆさりと横たえ、それぞれのやり方で話を聞くべく静まり返った。

 陰なる大婆はぐるりと各段を見回すと、こほりと咳払いをして話しかける。

「我ら上位魔族ニルティスの女たちの筆頭の花、ラヴナと、夢魔の姫君があの男、眠り人の元におるのは知っておるな? 先日、遂にあの男が目覚めたが、我らではない様々な女たちの思惑が既に働いておるようじゃ。しかし、この件で我ら上位魔族ニルティスの女たちが後れを取ることなどあってはならぬ! よって、早速、『氷の女王』サーリャ様よりよき助言をいただいた。まず、『眠り女』も務めた『魔の国一の淑女』鳥の姫ティアーリアをあの男の元に向かわせる。寡婦かふの宿命によって心がむしばまれつつあるティアーリアは、慎重にあの男との信頼を築けることだろう」

 しかし、大婆が話し終えると、魔族の姫たちは口々に次は自分という提案をし始め、大婆の頭上を魅力的かつ力に満ちた言葉が飛び交い始めて収拾がつかなくなった。

「花はしゃべらぬから美しい、とは誰の言葉だったか忘れたのかの?」

 場はしんと静まり返る。

「まあ、我らは何をしてもくらく美しいがの」

 大婆の付け足した一言でまたどっと笑いが起きた。

「して同時に、この地にしばらく蟄居ちっきょさせられておった『狂乱の戦乙女いくさおとめ』ジルデガーテを放免せよとのことで、あれは既に永遠の地ことウロンダリアに飛び去った。相変わらず投げ槍や大矢のような女じゃ」

 一瞬静まり返ったのち、この判断の意図を察した魔族の姫たちの爆笑がこだました。それはしばらく止むことが無かったが、その中に大婆に呼びかけるものがあり、大婆は中段の暗く赤く燃える人影に声をかける。

こぼれ火の、お前かね?」

 大婆の呼びかけと同時に、石の段に座っていた女がゆっくりと立ち上がった。青みがかった灰色の滑らかな肌と、きわめて豊満な肢体。炭のように黒い下着のような衣服は時折熾火おきびが走るように燃え光り、その目と、長い黒髪の間から伸びた角の先も灼熱の赤を帯びている。それがひときわ強く赤く燃え輝き、照らされた肌にはどこかみずみずしさがあった。

──火の魔族の姫の一柱、こぼれ火のアージニー。

「私だ。あの正義にとち狂った戦乙女いくさおとめはどうでも良いが、それであの男に何の利があると言うのか? そこが今一つわからない。あれは我らのように献身的でも貞淑ていしゅくでもなく、こと男女や色の道においては使い物にならぬだろう?」

──おやおや、まるで自分にはそれがあると言わんばかりの口調だね。

──お前の『』が熱すぎて普通の男の槍・・・は燃え落ちてしまうから寂しいのかえ?

 人間には皮肉や悪口に聞こえかねない魔族の姫たちの挨拶に、アージニーは返事代わりの笑みを返すと、再びその目を大婆に向けた。大婆はゆっくりと頷く動作をする。

「とても若いお前にはわからぬかもなぁ。そこにこそあの男に利があるとしたらどうじゃ? つまり、我らの利もあるのじゃ」

 アージニーは腕を組んだ。

「まだ小娘の私にはわからない流れか。面白い。見届けさせてもらおう」

 眠り人一行の知らないところで、魔の国の深部もひそかに動き始めていた。

──上位魔族ニルティスたちの本拠地、上層地獄界じようそうじごくかいは人間たちより上の階層に存在するとしてそう呼ばれているが、無数に等しい様々な領域が存在する以外に詳しいことは何もわかっておらず、多くの魔術師や賢者たちの魅力的な研究対象になっている。

──大賢者アルヴェリオーネ著『幽世と領域』より。

初稿2021.02.10 改稿版2025.10.05

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